「可愛いお守り集めました!番外編」【御守年賀(郵便局)、お守りかもエール、青森の久光社】など
郵便局の「御守年賀」「お守りかもエール」をご存じでしょうか?
郵便局のサイトから無料でダウンロードでき、お守りの形になり、メッセージを書きこめるというものでしたが、2021年の正月はどうも無いらしい、ということに衝撃を受けています。
今回はこれまでの「御守年賀」をあげ、後半にその他、可愛い「お守り」の形をしたものを少しだけ載せたいと思います。
「御守年賀」「お守りかもエール」
これらは2018年正月頃から、正月前と夏の年2回、郵便局のサイトにアップされていた無料テンプレートでした(掲載期間は数週間だったように思います)。
毎回10種以上のデザインがあり、自分でダウンロードし、ハガキに印刷して人に送ることができました。
折れ線にそって折っていくと、「お守り」の形になります。
ハガキだと厚紙のため折りにくく、お守り自体もだいぶと小さくなりました。
また自分で画像やデザインを取り込んで、オリジナルデザインの「お守り」を作ることも可能でした。
季節感あるデザインが素敵で毎年楽しみにしていました。しかも無料という有難さ。
でも、2021年の正月はどうも無い様子(ショック)。
悲しいですが、今あるものをあげて偲んでいきます。
2020年度正月が最後だったのでしょうか?
今夏は無かった?記憶が定かではありません。郵便局でも聞きづらいし(困惑)。
こうしてサービスが終了したらしいことを日本で一番悲しんでいるのは私かもしれません(?)
さて、この他にも「お守り番外編」ということで、その他「お守りの形」をしたものを少しあげたい思います。
寺社のお守りではなく、ネットやお店で販売されているお守りですが、売られているだけあってどれも可愛いいのですが、見だすときりがなかったりして。
①「芽恋袋」(久光社・青森県)
リンゴ豆絞りというオリジナル生地があまりに可愛くひとめぼれ。また制作元が青森というのも嬉しいポイント。
「恋が芽生えますように」という願いがかけられているということでした。*1
ちなみに、この久光社きゅうこうしゃさんのりんご柄グッズは他にも色々なアイテムがあり、トートバッグなどりんごのドットが尋常じゃないほど可愛いです。
②渡辺人形の「お守り袋」(愛知県豊川市)
以前、豊川稲荷(愛知)を訪れた際、お稲荷さんのぬいぐるみが売られているというので渡辺人形さんというお店に寄りました。
この’お稲荷さんぬいぐるみ’の他にもお店で使う金襴きんらん生地を使ったグッズが各種あり、立派な生地にひかれて1つ買いました。こちらは純粋なお守り袋(500円ほど)。
そういえば、寅さんが首から下げていた印象的な紫のお守りもこんな金襴生地を使ったお守りだった。
③「大神」のお守り(カプコム)
アニメグッズで、「お守り」が売られることもあります。
カプコムのゲーム「大神」のお守りがかって発売されており、欲しくて色々と探したのですが、時期が遅すぎてこれは入手できなかったもの。
個人的に幻のお守りとなっています。
写もを借りてこれないので、NO写真で申し訳ない。上のような「大神」が描かれたデザインでした。
④お守りのかたちをした文具
最近、100均でみつけたありそうでそんなにはない「お守り型のふせん」。全然文字が書けないのですが(特に右)、見る度にカワイイーと思うものです。
最後に
「御守年賀」「お守りかもエール」は数年に渡り、サービスを提供してくれたのでしばらくお休みという塩梅なのかもしれません。
年末年始の楽しみが1つ減ってしまい、大変残念なのですが、これ以外にもDLできる無料サービスなどないか探してみようと思案中です。
また、寺社以外のお守り(お守りの形をしたもの)にまで手を広げると際限なくなってきてしまうのですが、できる限り情報を集めて、また素敵なものがあればあげたいなと考えながら、
『可愛いお守り集めました!』の番外編でした!以上です、ではまた!
*1:どこかの寺社にご祈祷済みというわけではない。
「ブログを書く意味ってあるのだろうか?」(収益化を考えず、好きでブログを続けている人に読んで欲しい)
ブログを書く目的は人さまざまかと思います。
収益化を目ざす場合、目的は1つなのでそれに集約していけばいいと思うのですが、好きでやっている場合、「あれ、何のためにやってるんだっけ?」と時々思うことがあります。
今回はそうした、好きでやっている「ブログ」のモチベーションについて。
ただただ好きでやってるけど、時に不安を感じる、同じようなブロガーさんに読んでもらえたら嬉しいです。
①好きでやってるブログのいいところ
◯好きなことを書ける
もうこれに尽きます。
収益化を目指す場合、不特定多数の人に読んでもらわなければいけません。扱うテーマを普遍的なものに寄せたりと絞り幅が出てきます。
一般的でないものは受けが悪いですから、自分の「好きなもの」「やりたいこと」との乖離かいりが出てきたりで、これはこれで悩ましいところ。
また、こうしてブログを書けること自体が、幸せで恵まれた環境にいるのだと感謝すべきなのだろうと思っています。
(本当に逼迫したら、好きなブログを書いているどころではないのですから。)
◯同じ趣味・趣向の仲間を探せる
現実にはなかなか出会えない同好の士を探す場にも(ネットで「趣味友」を探している感じ?)。
◯ブログばかりを気にせず、本業ができる
ブログばかりに時間をとられて、本当に好きなことができなくなったら本末顛倒。
ブログはあくまで趣味の1つと割り切り、本業や好きなことするのが正しい気がします。
②好きでやってるブログの続け方(気持ちの持ち方)
収益という跳ね返りを喜ぶわけではないし、アクセスがあったからといって単純には喜べません。
クリック後、1秒で閉じられてるかもしれないし、読んだけど「フーン」かもしれないのですから。
何が本当かは分かりません。だから、揺らぐ時があります。
一応、人に読んでもらうのを企図して公開しているのに、本当に何か役にたっているのだろうか?
役に立ってないのならやる意味ないんじゃないのか?という。
でもやはり、何が本当かは分からないのです(来てくれた人に聞いてみないと)。
相手に聞けないのですから、もう自分が楽しむことが優先になってきます。
そして、「こういうブログだったら自分は嬉しい」「こういうブログはイヤだ」という自分基準を採用するしかありません。
◯自分が自分のブログ最大のファンに
自分で書いていて「面白くない」「あまり良くない」と思うようなものは、人はさらに「良くない」と思うのではないでしょうか?
最大のファンである自分が、納得のいくまで推敲していくしかありません。
しかし、そうして書いた本人ですら、過去記事を見て「恥ずかしい!」「だめだコレ!」と思う惨状だったりするわけですが。
1番のファンなのですから、こうした記事は早めにリライトするか消すかして、軌道修正しなければいけないのですが、過去記事が増えるにつれ、手が回らない状況が生まれてしまっています。
◯「唯一無二」のブログを
もちろん、誰ものブログが「唯一無二」のはずですが、さらに唯一無二を極めるべきでしょう。
人と同じことをやってもね。
特に「好きでやっている」ブログにはなんの縛りもないのですから、さらに自由にやれるはず。
◯読まれなくとも気にしない
誰もが自分の好きなものしか読みません。自分の興味のあるものしか読まないのはお互い様。
例えば、「モテテク10選」とか「モテメイク」だのの記事を読まないのも私にはその情報がもう必要ないからで、仕方がない話なのです(昔なら読んだ?)。
③何のためにやってるのか?
◯自分のために
私の場合は書くのも好きだし、発見があるからです。
ブログを書く以上、「人に伝える」という責任が発生するので頑張って調べます。
以前のように、疑問のままに残しておかなくなりました。そして調べる内に、思いがけぬ発見をし、1人で感動することもあります。
調べる中で稀有な素晴らしいブログやサイトを発見することも、これまた大きな喜びになっています。
◯誰か1人のために
こうして一生懸命書いたブログを世の中の誰か1人位は真剣に読んでくれているのではないかな?と想像しています。
その「たった1人のために書く」ということがあってもいいのではないのでしょうか?
最後に(いつものお店のホッ)
もともとブログを読む方だった私がブログを始めたのは、それまで読んでいたブログのおかげです。
憂鬱な通勤電車の中で、毎日更新されるブログを楽しみにしていました。
「会社に行きたくないな」と、思いながら読むブログの与えてくれたもの。
それはいつものお店に感じるホッや安心感だったのだと思っています。
(あの時のブログの支えがあったからこそ、私は何とかかんとか会社に通えていたのですから。)
ブログを書き始めた原点がきっと誰しもあると思います。
「あれ、何のためにやってるんだっけ?」とゆらいだ時は、もう1度初心を思い出すといいかもしれません。私の原点でもある、
通勤電車の疲れた誰かに「いつものお店のホッ」をこのブログが与えることができたら、こんなに嬉しいことはありません。
(といっても、このブログはうす気味悪い内容も多く、同じ癒しを与えられてないかもですが。笑)
ということで、『ブログを書く意味ってあるのだろうか?』でした!以上です、ではまた!
「岩石・鉱物標本100種」(東京サイエンス)を買う(その辺の石ころの正体が何だか分かったら嬉しくはないだろうか?)
「岩石・鉱物標本」を持っている方、または欲しいかもと思っている方いないでしょうか?
興味はあっても、どうもマニアックで手を出しにくいと思っている私のような人もいるのではないでしょうか。
かなり悩んだ末、東京サイエンスの「岩石・鉱物標本100種」を買いました。
①欲しかった理由
子供の頃、化石集めをしており、元々好きでしたが、この年になり、改めて面白いと思うようになりました。
道を歩きながら、目にするそのへんの石(建材、庭の石、墓石などなど)。
あの石は、何という名前なのだろうか?と思いながら歩いています。
その辺の石ころは、火成岩類*1、堆積岩類*2、変成岩類*3の大きくわけて3つのはずですが、それすらよく分かりません(確率⅓なのに)。
石固有の名前なんて、当てること自体ほぼ無理。
でも、その辺の石ころの来歴が分かったら(石がいつ、どのように作られ、もともとどこにあったのか?)、どんなにか嬉しいことでしょう。
数千万年や何億年というとんでもなく長い時間を想像するだけでも楽しいことです。
②やはり実物をみないと。で、「岩石・鉱物標本100種」を購入してみる
といっても何を買っていいのやら。
何が初心者向けに最適な「鉱物標本」なのか、まるで分かりません。
10種類くらいのにしておけば良かったかもですが、欲が出て100種類のが見てみたくなりました(色エンピツ状態?)。
上の商品は55000円を超える値段で、さすがに高価。下の商品を買いました。
上下で何が違うかというと、上は「岩石100種類」。
下は「岩石50種類+鉱物50種類」という石のセットの違い。
岩石と鉱物の違いは、鉱物は純粋な物質で(硫黄とかコハクとか)、その鉱物の集合体が岩石ということでした。それすらあんまりわかってなかったー。
届いた実物をみて、(うわー、凄い。化学の実験室みたいだー)と。これがあるだけで部屋が一変する感じです。
石には1つ1つシールが貼ってあり、箱の表示を見ながら確認していきます。
【岩石・鉱物標本100種のセット内容】
◯岩石50種類
・火成岩類25種類 ・堆積岩類14種類
・変成岩類11種類。
◯鉱物50種類
硫黄、自然銅、石英、水晶、めのう、方解石、蛍石などなど(書ききれず)
◯石のサイズ
縦2cm×横2.5cmサイズ位が多い
粉状のものはビニール袋に
◯木箱のサイズ
32cm×32cm
◯重さ
木箱を入れて1.6kg(石だけなら500g)
◯販売元
「東京サイエンス」(化石・岩石・鉱物標本の専門店)
1個1個はミニサイズですが、綺麗な標本でした。写真で見てるよりはずっとためになります。
本当は、手のひらサイズが観察しやすくていい、とは思うのですが、大きい石を何10個も部屋に置くのはちょっと抵抗がある方におすすめです。
③本もいいけど(鉱物・岩石の書籍を少しだけ)
黒地に浮かぶ、タイトル通り美しい鉱物写真の数々。見てるだけでもウットリ。
日本各地の川原・海岸などで石ころを拾い、石の素性を調べた労作。
どの本も良本でワクワクするのですが、やはり、石はさわって持たないと、ということで本だけでは一生判別がつかない気がします。
最後に
残りの人生のお供にと、「岩石・鉱物標本100種」を買いました。
今は枕元に置き、寝る前に見て楽しんでいます。また、実際に買ったことで根拠の無い自信もついたりして。
マニアックでちょっと私にはと思っていた「岩石標本」ですが、この先、多くの発見を与えてくれるのではないか?と期待しています。*4
ということで以上、『岩石・鉱物標本100種を買いました』でした!
もし、「岩石標本」購入を考えている方の参考になれば幸いです。ではまた!
「鳳来寺山」(1425段の石段が素晴らしい。「鏡岩」をはじめ巨岩ゴロゴロのお山。ブッポウソーと鳴くのは?)(愛知県新城市)
11月、鳳来寺山ほうらいじさんへ行ってきました。奥三河のこの場所、愛知県民でも行ったことないという人もきっといるでしょう。
もともと巨岩の修験場であった鳳来寺山では、1425段の素晴らしい石段と幕府に庇護された鳳来寺、東照宮を参拝することができます。
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①参道入口と「観来館」
JRを下車し、バスで鳳来寺へ向かいます。車窓の風景はもう長野ぽい感じ(愛知と長野は隣県)。
参道入り口、目立つところにいきなりお墓があります。
これは、長篠の戦い(1575)で徳川に味方したため、13歳で磔刑にされた奥平おくだいら仙千代丸のお墓です。*1
このお墓向かいには、観来館みにこんかんという観光案内所があり、参拝前に予備知識をつけることができます。
◯鳳来寺山歴史文化考証館 観来館
鳳来寺山の観光案内所。歴史などの展示や登山ルートについても親切に教えてもらえる。
手作り土産なども販売中。
【営業時間】10時-16時(12-3月は15時まで)
【休館日】火曜(12月-3月は月も休み)
【所在】愛知県新城市門谷木戸2-3
さて、’みにこんかん’を出て、参道をひたすら歩きます。
ここから、石段を上るコースだと1時間30分位はかかります。
参道には、いくつかの彫像が置かれているのですが、下は若山牧水像。
また、このそばには松尾芭蕉像や鳳来寺のお堂には種田山頭火たねださんとうかの扁額があったりと、江戸~大正に渡り、文人が参詣した場所だったんだなぁということが分かります。
牧水は「仏法僧」について*2、芭蕉は鳳来寺参詣が寒くて大変こたえたらしく、寒さを感じる俳句を、山頭火は一番楽しげな俳句をそれぞれ詠んでいます。
そして、1.2kmほどの参道を歩くと1425段の石段がいよいよ始まります。
② 1425段の石段がすごい(伝・源頼朝の寄進)
わっ、愛知にこんなところが?です。「熊野古道の写真です」といっても通りそう。
鳳来寺は702年(大宝2)、利修りしゅう仙人による開山と伝わります(寺伝)。
この利修仙人、309歳まで生き、3匹の鬼を従え、鳳凰に乗って空を飛んだといわれ、まるで奈良の「役行者えんのぎょうじゃ」のようなエピソードを持った仙人です。*3
また、鳳来寺のご本尊は薬師如来ですが、古いお寺のご本尊は薬師であることが多かったりするので、そうしたことにも歴史の古さを感じます。
これら院(僧房)は今は跡地なのですが、決まって背後の崖が崩れていたりと、山の中に暮らすのも楽じゃなさそうということが窺えます。
さて小1時間かけて石段を登りきると鳳来寺。そして鏡岩を望むことができます。
鳳来寺が古来より信仰されたのは、この背後の鏡岩 の威容のせいでしょう。立派です。
高さ70m・幅250mで、本体は松脂岩しょうしがん化した流紋岩*4です。
「松脂岩」という名前は松ヤニのような光沢があることからでガラス質成分を含むのだそうです。この辺りはこの松脂岩の産出地で全国的に珍しいという話。
鳳来寺まで来ると人が増えます。これは山頂付近に駐車場があり、そこで降りて参拝する人が多いから(小1時間かけて、急な石段を登る人は少数派)。
紅葉は例年11月20日過ぎということでまだ早かったのですが、 鳳来寺の美しい自然を求めて参拝する人が多くみられました。
この東照宮や本堂から、山頂(684m)へアタックすることもできるのですが、少しだけ危ない場所もあると聞いていたので無理しないことにしました(もともと修験道の山)。
③重要文化財「東照宮」
建物は3代将軍家光の寄進で、本殿、拝殿、仁王門などが重文指定で色彩もよく残り、綺麗に保たれています。
もともと、家康の母・於大おだいの方(1528-1602)の尊崇が厚く、 「鳳来寺参籠の結果、家康を授かった」という故事があり、
これに感激した家光が伽藍を整備し、東照宮を造営したといいます(1651年落成)。
また江戸時代は、東照宮を参拝できる通行手形を持っている人のみが参拝できたそうで、「手形」の無いほとんどの人は東照宮下の石段から、東照宮を想像しつつ遥拝したとのだとか。
現代に生まれてよかったとホっとする話。
④ 「東照宮」のお守り・お土産
さて、東照宮で頂けるこれらの寅のお守りですが、何なのか?というと「寅童子」という家康にちなむ玩具(起き上がり小法師のおもちゃ。昭和30年頃~)からきています。*5
ひょうきんな顔が可愛いものです。
観来館で買える手作り吊るし雛は、まるで中世のお姫様の玩具みたいに思えるもの。
この「酒まんじゅう」の蔵元・森山酒造さんは、元禄年間創業の古い酒造で、作られるお酒・蜂龍盃はなかなかの入手しづらさとか。
上は、中央構造線の話や鉱物愛にあふれた1冊(鳳来寺自然科学博物館で)。
【営業時間】9-17時 【休館日】火曜日
【入館料】大人220円
鳳来寺参道にあって一見すると地味な博物館。
しかし、コノハズクや特に地質、鉱物・化石、中央構造線の展示が素晴らしい。
もともとこの辺りは地質・鉱物が豊かで鉱物マニアにはたまらない場所という。
最後に
というわけで、巨岩・鏡岩を始まりとし、豊かな自然、長い信仰の歴史を持つ鳳来寺山でした。
他にも紅葉、仏法僧、登山、鉱物、文人墨客とみどころたくさんの山で、行ってみないとほんとに分からないものだなぁと思った鳳来寺山でした。
興味のある方はぜひおでかけ下さい!
ということで、『鏡岩をはじめ巨岩ゴロゴロのお山』でした!は以上です、ではまた!
「珍しいお墓や変った埋葬方法について考える【後編】」(④藤ノ木古墳、⑤豊臣秀吉の墓、⑥尾張藩祖の廟、⑦大阪 一心寺のお骨仏)
前回ブログからの続きです。興味のある珍しいお墓、変わった埋葬法を見ていきます。
後編では、「藤ノ木古墳」「豊臣秀吉の墓」「尾張藩祖のお墓・源敬公廟」「大阪・一心寺のお骨仏」の4つを取り上げました。
④「藤ノ木古墳」(奈良県)
未盗掘の石室や石棺から豪華な副葬品や遺体が発見され、話題になったの藤ノ木古墳(6C後半)ですが、異様に感じるのは同じ棺に2人の男性が埋葬されていることです。
この2人は有力皇族の穴穂部皇子あなほべのみこ、宅部皇子やかべのみこといわれてます。*1
こうした合葬墓にはふつう、配偶者・家族が合葬されるイメージですが、この2人の皇子はともに物部派の親しい間柄であったといいます。
『日本書記』には、穴穂部皇子が殺害された翌日に宅部皇子が殺されたとあり、亡くなった日が近いことが関係しているのか。
しかし、合葬墓でもふつうは1人1棺で、権力者が「2人1棺」というのはかなり異様な気がします。
正面を向く北側の穴穂部皇子(?)に対し、寄り添うように南側に宅部皇子(?)が横を向いて配置されますが、
棺の横幅は130cmで、棺の厚み分を考えるともうキュウキュウのためでしょうか?
2遺体とも10数枚の綿・絹布で巻かれており、厚みもあったよう。また、埋葬前に消化器官など内臓が抜かれていた可能性が指摘されていて、そちらも興味深いです。
異常な死に対しても「殯もがり」は行われたのか?とか、内臓を取り出したのは腐敗を遅らせるためなのだろうか?とか興味の尽きない墳墓です。
殯とは、日本の古代に行われていた葬送儀礼。 死者を埋葬するまでの長い期間、遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。 その柩を安置する場所をも指すことがある。 引用:wikipedia「殯」
⑤「秀吉の遺体」(豊国廟・京都市)
豊臣秀吉の墓が一体どこにあるのか、イメージは薄いのではないでしょうか?
秀吉(1537-1598)のお墓は、京都市東山区の阿弥陀ケ峰にあります。
明治30年(1897)、秀吉を祀る「豊国廟」の整備が行われた際、偶然、秀吉の遺体が発見されます。
粗末な甕(高さ1mほど)の中で西の方角を向き、足を組み、掌を組んだ形でミイラ化していたといわれ、
その際の不手際で、秀吉の遺体はボロボロに崩れ、それを拾い集めて改葬をしたといいます。
実を言うと、秀吉の墓はそれまで無事だったわけではなく、元禄元年(1688)ころ盗掘に遭い、副葬品などが盗まれています。
その際、もともと木棺に入っていた遺体が甕に移し替えられたのではないか?ということが推測されています。
こうした発見時の様子は、①湯本文彦「豊太閤改葬始末」(明治39年発表)に記載されているそうですが、今回読むことができず、②③のサイトが詳細に紹介をされていてたいへん参考になりました。
発見時の様子がわかるサイト
① 湯本文彦『豊太閤改葬始末』「史学雑誌17-1」1909
②『豊国廟に建設された五輪塔は、石段の上にある高さ10mの巨大石造物』(「京都発!ふらっとトラベル研究所」)
③『【発掘されていた秀吉の遺体!】太閤の歯、秀頼の手形を伝える宝物館』(歴人マガジン)
⑥「源敬公廟」(定光寺・愛知県瀬戸市)
こちらは、愛知県瀬戸市にある定光寺じょうこうじで、尾張藩祖・徳川義直よしなお(1601-1650)を祀る儒教様式の廟があることでも有名なお寺です。
この’源敬公廟’げんけいこうびょうで注目するのは、向かって右手に9基並ぶ殉葬墓です。
1650年(慶安3)、義直が亡くなると5名が殉死をし、その陪臣4名が後を追っています。*2
右側に殉葬墓が配置されたのは、左上右下さじょううげ*3などの理由でもあるのかと思い、お寺の方にも聞いてみたのですが、
「たまたまそういう立地だったのではないか?反対側は場所が取れなかったのではないか?」とのことでした。*4
源敬公廟は整然とした秩序の内に、お殿様と大切な家臣たちを静かに眠らせているような、とても印象深い墓域となっています。
⑦「お骨仏」(一心寺・大阪市 )
一心寺いっしんじさん(天王寺区)は、遺骨で作られたお骨仏おこつぼとけで有名なお寺で、10年間に納骨されたお骨から1体の阿弥陀仏を作っています。
お骨佛堂には、そうして作られた8体の阿弥陀仏が並びますが(通算14体。6体は戦災で焼失)、あまりにたくさんの遺骨の量を想像して絶句し、さすがに写真に撮れませんでした。
明治20年に始まった最初の1体目以降、約200万人のお骨が仏様になっているこの一心寺の様子を見た時はたいへん驚いたのですが、*5
ひっきりなしにお参りされ、焼香されている阿弥陀様を見て、誰も来ない普通のお墓よりもいいのかもしれない、大阪の喧騒の中にあって亡くなった人も安心するかも、と感じたり。
最後に
ということで、興味のあるお墓や埋葬について見てきました。
お墓をみる際は、「なぜこの形なのか?」(必ず意図や意味があるのではないか?)を考えながら、お墓めぐりをしています。
また常に変化がある中で、お墓だけはタイムカプセルのように時が止まっているのも何ともいえない点です。
最近ネットで「恐怖と興味は紙一重」という書き込みをみて、なるほど、その通り!と感心したのですが、
お墓や死者の世界に恐怖を感じながらも、理由を知りたい好奇心の方が勝り、続けてるわけです。
また興味深いお墓・埋葬などをブログであげたいなと考えながら、以上、『珍しいお墓や変った埋葬方法について考える』でした!ではまた!
「珍しいお墓や変った埋葬方法について考える【前編】」(①モヨロ貝塚、②舟葬、③盤状集骨墓)
お墓や埋葬について関心をもっています。
主に縄文時代~江戸時代の古いお墓ですが、お墓からは分かることは多いため、(勇気を出して)できる限り、見に行くようにしています。
今回は興味深いお墓、埋葬についてを見ていきたいと思います。
お墓に興味がある理由
それは読み取れる情報が多いからで、遺体の埋葬状態・向き、埋葬品には故人の想いと埋葬した人の想いの両方が詰まっています。
墓石に彫られた銘文からは、年代・人名・状況も分かり、墓石に使う石の大きさ・技術からは身分も推察されます。
墓石が西向きであれば西方浄土に向かって建てられているのかなとか、海や山や平地が少ない集落であれば、山沿い崖などに墓地を作っているので、その場所の生活ぶりも想像できます。
また石や骨は残りやすく、恐怖心や信仰心、金目のものではない等の理由で、散逸しにくいというのも大きな魅力です。
①「モヨロ貝塚」(1300年前)(網走市)
写真のように、頭に土器をかぶせた不思議な埋葬方法です。被せた理由は分かりません。
出てこないようにしているのか、頭を守っているのか。
下の写真のように、さらに配石という石をのせたバージョンもあります。
遺体は屈葬で*1、頭を北西に向けていますが、この向きにもおそらく意味があったのでしょう。
これらのお墓は集落のそばに作られました。モヨロ貝塚館の屋外展示では実際の埋葬の様子を見ることができます。
なぜ、頭から甕を被せたのか?それはほんとにモヨロ人を捕まえて聞きたいくらいで。
またモヨロとは関係ありませんが、戦国時代~江戸時代には鍋かぶり葬という「鍋」「すり鉢」を頭に被せる埋葬法がありました。
鍋かぶり葬の方は、疫病などで亡くなった死者に被せたという伝承があり、2012年、それを裏付けるように、江戸時代の鍋かぶり葬の人骨からハンセン病のDNAが出たと話題になりました。*2
甕にしろ鍋にしろ 何かしらを被せるのは、やはり生きている側が怖れから被せるのかなという気がしています。
モヨロの埋葬について知りたい方は、下記のサイトが詳細です。
◯熊木敏朗『オホーツク人と死』(2オホーツク氷民文化)
②「舟葬」(弥生時代中期・2000年前)(名古屋市北区 ・平手町遺跡)
珍しい「舟葬しゅうそう」のお墓です。
舟からの転用と思いきや、実際の船には用いられないヒノキ製なのだそうです(最初から「棺」として作成された?)。
こんな立派なお墓を作ってもらえるということはなかなかの有力者だったのでしょう。そして、船の軸先は北西方向に、足を北西に向ける形で葬られています。
あの世は北西にあったのでしょうか?
日本では死者を天界に運ぶ舟・船と鳥、死者の霊魂を舟・船に乗せ、鳥に案内させて太陽のもと来世に導くという昇天思想がある。引用:wikipedia「船葬墓」
このwikiの船、鳥、あの世、太陽の沈む方向というイメージは古代エジプト人の考え方とそっくり(?)で、奇妙な相似が興味深いです。
③「盤状集骨墓」(縄文時代晩期)(三河湾沿岸)
これも珍しい埋葬の仕方で、昨年初めて見て驚きました。
この盤状集骨墓ばんじょうしゅうこつぼは三河湾沿岸に見られる地域的な形態らしく、一度埋葬した骨を掘り起こし、再度埋葬する再葬というやり方をしています。
しかも一体ではなく、数体分(世帯や家族分なのかもしれません)。長い骨は外側に、それ以外は内側にセットし、頭蓋骨は割って角に配置しているのだとか。
なぜ、頭蓋骨を隅にセットしたのか?これにもきっと意味合いがあるのでしょう。
縄文人に聞かないともう理由は分かりませんが。先祖崇拝や(死後の)通過儀礼とも、墓域の省スペース化という理由もあったかもしれません。*3
縄文時代~弥生時代の「再葬」や「集骨墓」については以下の論文が詳しいです。
ということで、興味深いお墓・埋葬を見てきました。後編に続きます!
後編ではもう少し時代が下ります。
自分が人気がない理由「不人気のわけ」を考えた(それは「力」を人に与えられていなかったから)
みなさんは人気者でしょうか?私はもちろん人気がなく、学校でも職場でも浮いた存在でした。
人気が無い理由は1個だけでなく、複数あったかと思いますが、最近思うのは「自分は、与えるものが少ない人間だった」ということです。
あくまで個人的な考えで、「これを読めば人気者になれる!」という類いのものではありません。でも、もし参考になることがあれば幸いです。
①子供のころ、大人に親切にしてもらった記憶
子供のころ、どこかのおばさん・おじさんに親切にしてもらった記憶ってないでしょうか?
「大丈夫?」とか「1人で来たの?」とか「元気だね」と声をかけてもらった記憶。
最近、ふと思ったのですが、いい年になった私が今それをできているかというと「否」なのです。本当に愕然としました。*1
私が人から人気が無かった理由は、こうして人に「何か」を与えてこなかったことではなかったか、とふと思ったのです。
何かとは色々あると思いますが、例えば、上の場合は見知らぬ子に与えられた「親切」「気遣い」「優しい気持ち」だったと思います。
②「何か」を与えられること。「力」を分けれること。
人に「何かをしてあげられる」人は、やはり人気があります。
例えば「お金」(お金は「力」が物体化している例なので分かりやすい)。
「気前のいい人」はやはり人気でしょう。自分の力を分けてあげているのですから。
また、親から子への愛情。親は子供を常に気にかけ、助けます。これも自分の「愛情という力」を子供に注いでいるわけです。
これが自分の子供でなく赤の他人であったなら、与える「力」も当然少なくなるはずです。
③その他の色々な「力」
◯笑顔や挨拶
むすっとしてて、挨拶もろくにしてくれない同僚もいます。
笑顔で感じのいい挨拶を率先してしてくれるのも、その人の「力」を与えてくれているということではないのでしょうか?
◯「話かけてくれる」「楽しい話をしてくれる」も同様です。
◯(こちらが)相手の話を聞くこと
(内容のある話はいいけど)私はムダ話・長話・くり返し話に、自分の時間をとられるのがイヤな時間にケチな人間でした。
でも、気持ちよく聴いてあげれることも、自分の「力」を出し惜しみしないということではなかったかな?と今では思っています。
④人気のない自分
学生時代や昔の職場の私は、「頼まれたらやる」という受け身なスタイルでした。
(頼まれれば、助力は惜しまないつもりだったので、それがそんなに悪いという気もしていなかった。)
でも、率先して「どうしたの?」と声掛けしてくれたり、「何かあればやるよ」と自ら言ってくれる人の方が好まれるに決まっています。
これに対して私は、(これ位のことは多分1人でできるだろう)とか(困ってるんだったら言うだろう)とか。
その上、自信も無いときていました。
「私よりも他の人の方が詳しいんじゃないか?」「私に聞かなくても他にも人はいる」と率先して声をあげようともしませんでした。
こうした態度は「受け身」で「冷たい」。「まるで他人事」と思われていたことでしょう。
実際、私は人の役に立たなくてもよかったんだ、と今は思います。
「何か困ってない?できることがあればやるよ」という気持ちをみせるだけで。
⑤「あなたは何もしてくれない‼」
こんなセリフ、彼女や奥さんから言われたことないでしょうか?
または「全く頼りにならないんだから‼」と。
私は癇癪持ちの母に言われ、ギョッとなりました(世の男性の気持ちが少し分かる気がしました。)
これはやはり、相手「何か」を与えられていないということなのでしょう。「愛情」とか「優しさ」とか「気遣い」とか。*2
「人はそもそも個」という考えが強かった自分は、群れたり、人に干渉することも少なくきてしまいました。
でも、人に「力」を全く与えられないほど、「余力ゼロなわけでもないな」と最近ようやく思い始めました。
最後に
家族や友達には「力」を与えられても、それ以外の人にはケチになってはいないでしょうか?
もしかしたら、それが自分の不人気原因の1つかもしれません。
以前は私は挨拶1つでも、「あっちからは全然しないのに、なんでこっちから?」とまるで損をしているような気持ちになっていました。
一方、私に色々な「何か」を損得を考えずに与えてくれた人達のことを考えると、有難さや器の大きさを改めて感じます。
私が今さら「人気者」を目指すことはありません。でも余力が0なわけではない。
今まで頂いた親切に対して返していけたらな、と考えています。
私が昔助けられたように、見知らぬ誰かを助けれることもきっとあるでしょう。
そして自分が変われば、周囲の反応も変わるかもしれません。
ということで、『自分の人気がない理由・不人気のわけを考えた』でした!以上です、ではまた!
斎藤道三と織田信長の対面場所「聖徳寺」(信長たちが歩いた「ルート」を探したい)(愛知県一宮市富田)
織田信長(20)と斎藤道三(59)が対面するシーンで有名な「聖徳寺しょうとくじ会見」ですが、その後2人が「八幡神社(岐阜県羽島郡笠松町田代)まで帰路をともにし、別れの儀式をして別れた」という記述を見つけました。
あの聖徳寺会見には続きがあったのでしょうか?
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① 聖徳寺での対面
1553年(天文22)、うつけの噂を聞いた道三が対面場所の聖徳寺で待っていると、武装させた供の者を連れ、うって変わったシュッとした身なりで信長が現れたというあのエピソード、とても有名です。
聖徳寺はその後移転をし、現在は聖徳寺跡(一宮市富田とみだ)となっています。
②八幡神社まで同道し、別れの儀式をした
⑦『道三・信長両将別れの地』(白髭神社)
「両将は帰路を共にし、田代の八幡神社(白髭神社合祀)で別れの儀式をしました。その後、道三は稲葉山(金華山)の居城に、信長は那古野(名古屋市)の居城に引き上げました。
というもの。これは驚きです。あの話には続きがあったのでしょうか?「別れの儀式」っていったいどういうものなのでしょう?
聖徳寺跡から八幡神社(現・白髭神社)までは約8kmの距離です。
八幡神社があった場所は当時尾張領だったとも考えられますがこの辺り、氾濫で後年国境が変化している場所です。それに信長からしたら、8km送って8km戻ってとかなり大変では?と思えます。*1
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さて、この記述を見て、実際に聖徳寺跡から白髭神社まで歩いて確かめてみようと考えました。
ルートですが、ちょうどここには旧道美濃路みのじが途中まで通っています。
これ以上古い旧道は思いつかないし、ルート(名古屋ー清州ー稲葉ー萩原ー起)的にもぴったりなので、今回は萩原はぎわらからはじめ、聖徳寺跡が近くにある起おこしを通り、木曽川を渡り、対岸笠松町にある白髭神社を目指すことにしました。
今回は一宮市尾西びさい歴史民俗資料館さんの「美濃路マップ」で歩きます。分かりやすく歩きやすいうえ、防水加工がしてあり、クタタクタにならない優れもの。また、web上ではnetwork2010のサイトが便利。名古屋近郊の旧街道を歩けるようにグーグルマップに落とし込んであるので、スマホで確認しながら歩くことができます。
③萩原宿から聖徳寺跡へ
萩原宿から起宿までは約4kmの道のりです。
尾張には「中島なかしま」姓の方がみえますが、この辺が尾張の「中島さんの発祥の地」らしく、立派な中島さんのお家(庄屋さん)があったりで興味深くみつつ、
そしてあっという間に聖徳寺跡にたどり着きました。
信長が会見に出向いた際は、寺内町で700軒ほどの民家が並んでいたといいますが、今は往時をしのぶ感はなく、とても静かな場所となっています。
さて、この聖徳寺跡から「起宿おこしじゅく」へはもうすぐそこになります。この起、木曽川の渡船場として賑わった宿場です。
起の一宮市歴史民俗資料館では、脇本陣であった林家の住宅を公開し、美濃路と起宿についての展示などをしています。
こちらの施設、美濃路について専門なので、疑問を聞いてみました。
【疑問①】
「信長が聖徳寺に向かったルートは美濃路だったのか?」ですが、
「当時は美濃路はない」*2ということで「歩いたルートは分からない」とのことでした。
全く道が皆無ということはないのではないか?と思い、「美濃路の原形のような道は無かったのか?」を聞いてみたところ、
「道はあったかもしれないが、はっきりとはわからない。秀吉時代になるとやっと道がはっきりしてくる」「当時は一宮いちのみ側の道(もっと東側)がメインルート」ということも教えて頂きました。
そしてもう1つ、
【疑問②】
「八幡神社まで2人が同道して別れたという記述があるがどうなんだろうう?」ですが、
「遠すぎるのではないか」「渡船は狙われやすく、リスクがある。川を越えてまで送らないのではないか?」と親切に示唆して頂きました。
丁寧に教えて頂き、ありがとうございました!
「信長時代に美濃路ルートはない」と言われると、「もうどこを歩いたらいいんだ?」なのですが、分からないものはしょうがないので、ここから白髭神社までとりあえず美濃路を歩くことにします(その途中からは適当に歩くことに)。
起しの「人柱観音」は、慶長(1596-1615)年間の木曽川築堤の難工事の際に自ら志願して川に飛び込んだ「与三」という人を祀ったもの。
木曽川からは、金華山の道三の居城が見えます(城までは17kmほど)。
この後、木曽川にかかる橋を渡り、笠松町の白髭神社まで歩きました。
結論として、さすがに送ったにしては遠い!遠すぎるのではないか?と思いました。
信長の居城のある那古野から聖徳寺まで約24km、往復で48km。さらに送り分16kmを足すと64km。供を連れ、川も渡らなければなりません。ムリムリ、ムリでしょう。
今度機会をみつけて、笠松町でリーフレットの記述について聞いてみようと思います。何か出典があるのでしょうか?
④『信長公記』の記述
『信長公記』の記述もみておきます。
〇信長は「木曽川」「飛騨川」という大河を船で渡って、聖徳寺へ出向いた。
〇道三が帰るのを信長は20町ほど(2km位?)見送った、とあります。
木曽川が現在の流れになったのは1608年の木曽川築堤工事の後のことで(「人柱与三」の話はこの時の話)、戦国時代には今の木曽川は徒歩で渡ることが可能だったと考えられるという記述*3もあり、昔と今で「木曽川」「日光川」などの川の流れは大きく異なるようです。
また飛騨川がどの川なのか現段階では分かりませんでした。
最後に
残念ながら、信長の歩いたルートはどうもはっきりとしないということが分かりました(分からないということが分かったという冗談みたいなオチなのですが)。
「白髭神社まで送った」に関しては、これは遠すぎてムリだろうと歩いてみて感じました。
「別れの儀式」が何なのかこれもまだ分りませんが、また次回、笠松町でも聞いてみようと考えています。少し歩いたくらいで疑問が全部解決するはずありませんが一歩前進とし、次回につなげたいと思います。
ということで、『信長たちが歩いた「ルート」を探したい』でした!以上です、ではまた!
「日本1裕福な村」ってどんなところ?(海抜0m地帯からの新田開発と財政力指数最高位)(愛知県・海部郡飛島村)
「日本1裕福な村」としてよくTVで紹介される愛知県飛島村とびしまむらですが、話に聞くものの実際に行ったことはありませんでした。
今回はその「飛島村」を歩き、「新田開発の歴史」「水害での度重なる被害」からの財政力指数最高位2.18(2018)の今を見てみたいと思います。
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①飛島村とは
飛島村は、東は名古屋市、北・西側は弥富市に接し、南側は海という立地の村です。人口は約4600人(2020)で、農業(米、野菜、花卉栽培)が盛んです。
特筆すべきは、名古屋港の一角のこの場所にコンテナふ頭、火力発電所、鉄鉱・木材関係の工場などが密集していることです。
こうした企業・建物があることで税金としての歳入があり、村の財政が飛躍的に潤うようになったわけですが。
②新田開発の歴史 海抜0m地帯と伊勢湾台風
(写真が見づらく申し訳ないのですが)この辺りはもともとは河口に出来た砂洲でした。この砂洲に堤防を巡らして新田開発が江戸時代に始まりました。
濃い緑から→緑→ピンクというような順で、海に向かって順次干拓されていきました。
この辺り、平均海抜は「-1.5m」ということで海よりも低い!尾張地方は海抜0mの土地が多いのですが、さすがもと海というだけあってずば抜けて低いです。
さて、1879年に作られた新正成しんまさなり新田という場所に行ってみることにします。
現地では今でも造成した当時の短冊のような細長い区画を見ることができます。入植するさいは保証人をたて「誓約書」などを提出して入植したのだそうです。
この新正成新田の隅に「伊勢湾台風殉難之碑」がありました。wikiを読むとその被害は、
伊勢湾台風で当時の村域の大半が水没。死者132名、住宅の全半壊・流出など722戸。人口流出が相次ぎ、村内の小中学生は一宮市、稲沢市の学校に約3カ月間疎開。
とあり、また、
1959年(昭和34年)、伊勢湾台風では130名の犠牲者をもたらし、村長が県・国に数度対策を哀願するも、財政力の弱さから、復旧は「南海作戦」と呼ばれる海上自衛隊が着手した最後の伊勢湾台風復旧事業により被災から2ヶ月後まで水が引くことはなかった。村民の流出も相次ぎ、1960年(昭和35年)時点、財政力指数は0.22の貧しい自治体であった。
この当時の村長が県・国に対策を「哀願するも」の文字にはうるっとしてしまいます。
上の写真をみるに耕地は水没、家屋はゴミだらけ。とても生活はできないので、もう離散するしかないかもと思え、さらに記事を読み進むと心が暗澹としてゆきます。
1944年(昭和19年)の東南海地震でも太平洋戦争下で甚大な災害を被りながら、軍部からの指令により、名古屋市の工場が攻撃される事を防ぐため、田や畑に裸電球を灯して大都市を装い矢面に立つことを余儀なくされ、空襲による犠牲も多かった。
さて、この新正成新田を歩いていると突如、緊急警報のアラームが不気味に鳴り響き、「巨大地震が発生しました!」というアナウンスがくり返し流れ始めました。
もちろんゾっとました。今居るのは海抜0m以下の土地!車じゃないし、とても逃げきれません。
結局、このサイレンは隣の弥富やとみ市で行われた訓練であることが後で分ったのですが。
③現在の「飛島村」の様子
「村役場」の建物にしては大きいなとは思うのですが、特別ぜいたくという感じでありません。
村役場の北にある「すこやかセンター」は、図書館、温水プール、トレーニングルームが入った綺麗な施設でここだけはお金がかかっている気がしました(またお金をかけてもいいと思う)。
「図書館」内がとてもきれいで感心しました。リサイクル図書もこんなにたくさんの量あるのを見たのは初めてでした。
「名画」のレンタルを見たのも初めて。面白いです。
また、少し離れた「ふれあいの郷」という施設の中には天然温泉や日本庭園などがあり、ここも充実していました。
施設がどこも綺麗だったのは、村民数がもともと少ないせい(4600人)もあるかもしれません。小さな村である分、汚れず手もかけれるのでしょう。
村内も同様に小ぎれいで、廃屋とかボロボロな家は見かけませんでした。「日本1裕福な村」などというと、一瞬村民もリッチなのかな?と思ってしまいますが、県内の「所得ランキング」で見ると54市町村中14位*1とそんなには高くはありません。村内で見た住宅もいたって普通のお家でした。
④日本1裕福な村の理由
「飛島村」が裕福になったのは、飛島村にある企業からの歳入(固定資産税など)によるもので、伊勢湾台風後、「臨海工業地帯」の建設が推進され、1971年、沖にできた「西2区」「西4区」が飛島村に編入されて以降、歳入が増加したようです。
よく取り上げられる「財政力指数」*2ですが、飛島村は抜群の2.18。
引用:総務省「全市町村の主要財政指標」(平成30年度)より抜粋
ちなみに都道府県で1.0を上回るのは東京都のみで、以前は1.0以上あった愛知県も陥落し、今は0.9(H30年度)という有様だそうです。*3
そのおかげで福利厚生が充実し、
〇「耐震改修費補助金」上限180万円(条件に合致する住宅に対し)
〇「こども医療費支給事業」18歳までの子供の医療費実質無料
〇「中学生の海外派遣事業」参加希望者の中からアメリカ研修(ホームスティなど)
〇「結婚内祝金支給事業」夫婦1組に5万円(年齢制限などあり)
〇「後期高齢者福祉医療費支給事業」医療費実質無料(1人暮らしで非課税の人等が対象)
〇「児童養育奨励事業」(1人につき10万円) 飛島村で生まれ1年居住した場合や、村に住み小・中学校に通学している児童に対し。
〇「長寿奉祝金支給事業」満90歳で20万。95歳で50万。100歳で100万円を支給。
など書ききれないほど手厚く保護されています。
「いいなぁ」と思うのですが、「市街化区域」が少ないので住宅も少なく、転入は難しいのだそうです(年間260人ほど)。*4
⑤「飛島村郷土資料室」
飛島村にある資料室ですが、「新田開発」「村の暮らし」「伊勢湾台風」などの展示が充実していて、今回大変参考になりました。
また、特に印象に残ったのが、江戸時代、飛島新田の干拓を推進した津金つがね文左衛門(1727-1802)の資料で、昭和にお墓が改葬のため、掘り起こされましたが、当時と変わらぬ遺体の写真(死蝋化していた)や埋葬状況・衣服などここでしか見られないものがあります。
最後に
ということで、飛島村をみてきました。日本1裕福な村ということで、合併話などもあったそうですがH14年の住民アンケートで反対派多数だったそうです。*5
確かに「福利厚生の低下」は避けられなさそうですし、自分たちが苦しい時は合併拒否で、裕福になったら「合併しましょう」と言われるその胸中はと‥。
飛島村の歴史を見ると「水害」との戦いで、これからもそれは変わらないでしょう(海抜0m以下で「巨大地震」と言われたあの恐怖!)。他を利するより、「自助」に使った方がいいのではないかなと個人的には思いました。
日本1裕福な村が何なのか?まるで分からないまま出かけましたが、飛島村の過去と今を知ることができてよかったです。
最後に、飛島村の村民のみなさんの礼儀正しさが心に残りました。小学生から、村役場の大人の方から、率先して挨拶をしてもらいました(どうもありがとう!)。
知らない人に対しても挨拶するよう教育が行き届いているのかな?「村」であるからこその細やかな心づかいがある気がしました。
ということで、『日本1裕福な村ってどんなところ?』でした!以上です、ではまた!
『可愛いお守り集めました!』(大阪編)【堀越神社】【玉造神社】【石切神社】【四天王寺】【サムハラ神社】
『可愛いお守り集めました!』の大阪編です。
大阪も京都・奈良と同じく古い歴史があり、さらに個性とインパクトのあるお守りを多く見かけます。
今回は、面白い大阪のお守りを見ていきたい、と思います。
- ①「お守り」(堀越神社・阪市天王寺区)
- ②「子持勾玉の守護鈴」(玉造稲荷神社・大阪市中央区玉造)
- ③「棗玉腕輪守」(石切劔箭神社・東大阪市)
- ④「懸守」(四天王寺・大阪市天王寺区)
- ⑤「お守り」(サムハラ神社・大阪市西区)
- ⑥「辻占瓢箪笹」(瓢箪山稲荷・東大阪市)
- 【参考】現在手元にないもの
- 最後に
①「お守り」(堀越神社・阪市天王寺区)
堀越ほりこし神社は、聖徳太子によって創建されたといわれる古い神社で、また神社が建つ茶臼山は、大阪冬の陣・夏の陣の戦場にもなりました。
この堀越神社の神様は「一生に一度願いを聞いてくれる神様」といいますが、お祀りされているのは弑逆しいぎゃくされたことで史上有名な「崇峻すしゅん天皇(553?-592)で*1 、
神様のキャラがどうも合致せず、少し不思議な気がする神社です。
(尼崎の「残念さん」のように*2、無念・残念で亡くなった人は1つだけ願いごとを聞いてくれるものなのでしょうか?)
そして、そのお守りはというとこれまたとびきり可愛いもので、堀越神社のイメージは私の中ではますます一定しないという。
お守りの図柄は、厄除けの鱗文うろこもんに宝尽しを配した愛らしいデザインとなっています。
②「子持勾玉の守護鈴」(玉造稲荷神社・大阪市中央区玉造)
玉造たまつくり神社のある玉造には古代、大和朝廷の玉造部たまつくりべが居住し、玉作りをしていたと言われています。*3
玉造りにちなみ大きな子持勾玉こもちまがたまの形をした珍しい土鈴(約10cm)には、子授け・家庭円満・子孫繁栄のご祈祷がされています。
③「棗玉腕輪守」(石切劔箭神社・東大阪市)
石切劔箭いしきりつるぎや神社は、「石切さん」と呼ばれ、個性的なお店(「占い」や「漢方」「石の店」など)が続く門前町、上の社など見どころいっぱいの神社です。
この腕輪守りは、石切劔箭つるぎや神社の御神宝「翡翠棗玉なつめだま」を模していて、古代風な魔除けとなっています。
④「懸守」(四天王寺・大阪市天王寺区)
四天王寺の「懸守かけまもり」は、聖徳太子所用のものとして伝来し、国宝に指定されています。*4
その「懸守」を模したお守り。
この懸守というもの、美麗な錦の裂きれを貼り、装飾金具をつけ、中には仏像・護符などを入れたもので平安中期以降、婦女子が外出をする際、こうした懸守を胸から垂らし身につけることが流行したそうです。
かなり目立つのでアクセサリーのように人に見せたい目的もきっとあったことでしょう。
⑤「お守り」(サムハラ神社・大阪市西区)
最初、まず「サムハラ」という神社の名前にびっくりしました(文字に至っては変換できず)。
「サムハラ」が何なのかよく分らないのですが、神を表すともサンスクリット語由来とも。この文字自体が不思議な「神字」で、怪我除けなどの身を守る効果があるのだとか。
サムハラ神社といえば、入手困難な「指輪のお守り(御神環)」でも有名でした。銀色の指輪の裏側に「サムハラ」と刻印されたシンプルな指輪でしたが、大人気で超入手困難でした。*5
⑥「辻占瓢箪笹」(瓢箪山稲荷・東大阪市)
直径70cmくらいの模造の笹に、食べられる最中もなかがついていて、開けるとおみくじが出てくる趣向のもの。
この瓢箪山ひょうたんやま稲荷では、今でも「辻占つじうら」*6をして運勢をみてもらうことができます。
辻占総本社らしく、この「辻占3点セット」は、①おみくじ②「あぶりだし」③「やきぬき」の3枚組になったもの。
「やきぬき」は火を近づけると運勢が焼き抜かれる仕掛けです。
【参考】現在手元にないもの
上2つは人にあげてしまい、手元には無くなってしまいましたが、両方とも頂きたくなる面白いお守りです。
最後に
同じ関西でも、大阪には京・奈良と違った魅力を感じますが、それはいったい何なのか。
たぶん、個性の強さと常に動きがあり、生き生きとしている人と町の魅力なのだと思っています。
昔はあまりこの大阪の魅力が分かっていなかったのですが、ここ数年、個人的に1番面白い場所の1つとなっています。魅力的な大阪の町を回り、古い寺社を訪ねてお守りを頂くのはとってもドキドキとする楽しいことです。
ということで、『可愛いお守り集めました!(大阪編)』でした!以上です、ではまた!