半日、土岐川をさかのぼる石探し。まぼろしの土岐石を見つけることはできたのだろうか?(岐阜県土岐市・瑞浪市)
先日、半日がかりで土岐川ときがわを歩き、石を探しに行ってきました。
土岐川で採れる土岐石を拾いたい!というのが昨年からの願望ですが、果たして土岐石ときいしやそのほか面白いものは拾えたのでしょうか?
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①真っ暗で探せないよ!凍ってるよ!
今回は、JR土岐市駅で下車し、隣の瑞浪みずなみ駅をめざします。その距離8kmほど。
しかしこの時期、朝6時過ぎの駅前・川は真っ暗!少しづつ薄明がさしてきたとはいえ、暗すぎてまるで石が見えず、歩いてる人も私以外にはいないという(不審すぎ!)。
仕方なく川の上流方向へ歩きつつ、明るくなるのを待ちます。
しかも川原に降りて気づいたのですが、この時期の朝の川は(場所によっては)凍り、川そばの石は氷がついてまっ白。これじゃぁ何の石か分からないよ!
でも凍てついた石を見ることあの固い石が割れたり、小さくなっていく理由がすごくよく分かりました。
日中、この氷は解けて乾燥し、そして夜また凍ると。これを延々を繰り返せば、石すら割れるなーと。
そして、土岐川にかかる橋がいくつもあるわけですが、橋に出くわす度、その下に降りれるかどうかチェック。
しかし、護岸工事中や全然降りられないところも多く、ガッカリしながらも石を探して川をさかのぼります。
ということで、うつむいてひたすら石を探すこと数時間、やがて瑞浪市に入りました。
と書くとあっという間ですが、この日歩いた距離はトータルで18km。橋の下に降りたり、河原を行ったりきたり、小刻みに歩き距離を稼いでいます。
②集めた石
というわけで、ここまで集めてきた石の中に果たして土岐石はあったのか?ですが、このような感じになりました。
さて、採集したその足で、瑞浪市にある瑞浪市化石博物館を訪ねました。
③鑑定の結果
この瑞浪市化石博物館は、デスモスチルス*1など大型の哺乳類の化石を展示していることで有名で、また太古、この辺りが湖だったことから貝・魚・植物の化石などを多く所蔵する博物館です。
川原の石を見て欲しいと伝えると、「鑑定ですね。先生ー!」と奥から先生を呼んでもらえ、その慣れた様子にホッとしました。
(けっこう化石の持ち込みがあるのかな)
ということで、先生に石の鑑定をしてもらいました。
上の石は斑レイ岩とのこと。そもそも斑レイ岩と閃緑岩の見分けが私には難しく、斑レイ岩と言い切ってもらえ、これがそうなのかーとちょっと感動。
こちらは流紋岩りゅうもんがん。流紋岩は色んな見た目があることに驚かされる石ですが、これは石に流れ(流紋)があり、少しキラキラとして分かりやすいタイプだったようです。
上のもの2つはチャートで、特に上は層ずれした珍しいもの。こんなのを拾えたの初めてで嬉しかった。
鑑定後に拾ったため、正体が分からずいまだに悩む石も。
上は、長石(ピンク色だからカリ長石?)の粒が異様に大きく、土岐川では結構みた石なのですが何になるのかな?
さて最後に、土岐石みたいと思って拾った赤いボコボコ石は「チャート!」と言下に答えられてしまいました(あぁ)。
穴があること。ボコボコとした感じ、水につけた時の色味の綺麗さ。これはもしかして可能性がある?と思ったのですが、だめだったか。
チャートと土岐石は色・見ためがかぶる所があり、紛らわしすぎィ!と思ったり。
④まとめ
◯土岐市ではチャートが多いが、瑞浪に行くと火成岩が多くなり、化石も混じり、石の種類が豊かに。わずか数kmしか離れていないのに拾える石に違いがあることに驚いた。
◯探している珪化木(土岐石)については、瑞浪では採れるものは単純に木の化石の白いタイプのもので、色の付いた錦珪化木は出ないとの話。
◯また、地元の方からは「昔は川で珍しい石(つぼ石など)が拾えたが今は難しくなっている。その辺で水晶の鉱脈を見つけたり、珍しい赤い石が出て東京へ持って行ったこともあった」というお話を聞くことができました。
こうした話を聞くとその石が欲しいなら、川原での探石は効率が悪く、供給源の山で探すべきなんだろうなとは思うのですが、しかしそれはレベルが高すぎる。
最後に
というわけで、残念ながら、土岐石を拾うことはできませんでした。別の日、支流を半日歩いたのですが、同様の結果でした。
というように土岐石を拾うことはとても難しいのですが、一生に1度拾えたらいいかな?くらいの気持ちでこれからも探し続けようと思っています。今回土岐石かも?と思って拾った土岐石モドキは、本物が見つかるまで私の部屋のドアストッパーとなっています。
最後になりましたが、教えて頂いた瑞浪市化石博物館の先生や職員さんに感謝をしつつ、『土岐川をさかのぼる石探し』でした!以上です、ではまた!
豊臣秀頼の首は生きたアサリとともに埋葬をされたのか?(大阪城三の丸の発掘調査)(書籍『秀頼の首』より)
『秀頼の首』という入手の難しい本があります。この本、1980年の大阪城の発掘調査で、豊臣秀頼(1593-1615)の可能性のある頭蓋骨を発見し、その異様な埋葬の状況を記した書物です。
しかし内容を知りたいと思ってもレビューも少なく、どんなことが書かれているのかずっと気になっていました。
今回は、やっと読むことができたこの本の内容について書きたいと思います。
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①本の構成など
豊臣秀頼は1615年の大阪夏の陣で、淀君らとともに大阪城・山里丸で自決をしたと伝えられています。
その遺体は、矢倉に火を放ったことでいずれか判別のつかない焼死体であったといいます。*1
さて、著者の木崎國嘉さんは当時の現場の様子を見聞し、発掘された頭蓋骨を間近で見たお医者さん(教授)です。
第1章「頭蓋骨の発見」ではそうした医師の目からみた’秀頼の首’が語られ、
第2章に詳しい頭蓋骨の鑑定結果と、その後は秀頼の成長と大阪の陣にいたるまでの経緯が第4章まで続き、
最終章・第5章では、大阪城の矢倉で自決した秀頼の首が持ち出されたとしたなら、いったい誰がどうやって?という推察がされています。
②発掘の様子と頭蓋骨の鑑定結果
さて1980年、追手門学院の敷地(中央区追手前1丁目)で発掘調査が行われ、その際、極めて健康状態の良い男性の頭蓋骨が発掘されました。
本から発掘状況を拾うと、
【発掘状況】
◯1m四方の穴が掘られ、埋葬されていた。
◯墓には墓標のような石柱(15cm角・長さ80cm・花崗岩製)が建てられ、目立たない程度の盛り土がされていた(仮埋葬?)
◯穴の底にはアサリやタニシの貝が一面に敷きつめられていた
◯同じ場所から、織部焼の角皿と唐津焼の大皿が出土(副葬品と思われる)
◯側の穴からは埋葬された大きな馬の骨が出土し、その穴底には青草をしきつめたような痕跡があった。
◯首は根本から断ち切られ(介錯時のもの?)、南東の方向を向いて置かれていた。
◯頭蓋骨とともに2体の躯幹部が出土。*2
【頭蓋骨の鑑定結果】
鑑定結果からの一部抜粋。
「眉弓は明瞭」
「項線の発達は不良」(筋肉の発達が弱いと推定される)
「左外耳穴は骨新生物で閉鎖」(後天性と思われる)
「頭蓋骨のみについていえば、かなり若い成人男子であり、頭部は前後に長く、鼻筋が通り、上顎がやや前方に突出している。
ことに左側の外耳孔の骨性の閉鎖(外聴道骨腫)により、生前の左側の聴力は極度に低下していたものと思われる。」 引用:『秀頼の首』63P
またこの鑑定結果とは別に、
◯頭蓋骨の歯は歯並びがよく、すり減っていなかった。
◯親知らずが全て生えそろっていること。上口蓋骨の前後の正中線がはっきり残っていることなどから、年齢は20から25位までの若者。
という記述を拾うことができました。とても興味深い内容だったのですが、この中の特に気になる点をいくつか取り上げたいと思います。
③疑問など
◯なぜ、身の入った生きた貝を底にしきつめて埋葬したのか?
この有り様をイメージすると、たいへん奇妙で不思議な気がするのですが、貝を埋納したのは供養とも清めとも、単に湾が近く入手しやすかったのかそれか何か再生の意味でもあるのか?秀頼の好物説まであり、それはそれで個人的には1番面白い説だったのですが。
こうした埋葬方法が当時あったのかを知らないので、これについてはこれから調べてみたいと考えています。
◯大型の馬の骨は、秀頼の愛馬?
頭蓋骨そばの穴から出た大きな馬の骨は、骨のサイズ・太さ、眼窩が在来馬とは明らかに違う特徴を示していました。
秀吉・秀頼の愛馬の太平楽は、アラビア馬系の体高170cmある黒馬あおであったといわれ、これこそ太平楽ではなかったか?という推測がされています。
◯左耳が難聴だった。
これは衝撃の内容ですが、秀頼が難聴であったことを示す記録はみえず、ただ疱瘡にかかった記録はあるので、あるいはこれが原因ではなかったか?という指摘をしています。
◯なぜこの首が秀頼の首なのか?
当の骨が豊臣時代の地層から出、秀頼が自決した山里丸から近い場所にあったこと。*3
副葬品の織部や唐津の年代も同時期に相当し、またこれら焼き物は当時たいへん高価で普通の人間がまず所有できるものではなかったこと(一緒に埋葬された大型の馬も同様)。
丁寧に葬送をされていること。
そして歯もすりへらず、極めて健康状態の良い20歳過ぎの男性の頭蓋骨であること。
これらをあてはめていくと、秀頼その人ではないか?という推測もうなづけるわけです。
◯包囲された矢倉から首を持ち出すことは可能なのか?
この疑問については、最後に著者の木崎さんは持ち出したのはこの武将ではないか?という推測を立てられています。
徳川方の包囲網をかいくぐることは果たしてできたのか?
夏の陣の際の、大阪城からの脱出の記録『おきく物語』を読むとその意外性に富む描写に驚くこともあり、可能性は0ではないかも、と個人的には思うのですが。
最後に
というわけで、『秀頼の首』の発掘の状況をみてきました。
この本である程度の内容を知ることはできましたが専門書ではないため、もっと詳しい出土状況を知りたい、というもどかしい気持ちになることも度々ありました。
しかし、あまり知られていない内容なので、この本で内容を知ることができたことに同時に感謝を覚えています。興味のある方は是非読んでみて下さい。
ということで、今後は実際の発掘の調査報告書を探したり、『大阪御陣覚書』を読んでみたり、大阪歴史博物館で聞いてみたり、さらに探りたいと考えながら、
以上、『豊臣秀頼の首は生きたハマグリとともに埋葬をされたのか?』でした!ではまた!
そのへんに落ちてるような石のペンダントを買ってみた。①「出雲石(来待石)」凝灰質砂岩 ②「赤玉石」(佐渡)
先日、石のことを調べていてふと、ふつーの石のペンダントの写真に目がとまりました。
ものは凝灰質砂岩、「出雲石」と書かれたグレーな地味石で、「はていったい誰がこんなただの石を身につけるのだろうか?」ととても気になりました。
今回はその石と3大名石の1つといわれる「赤玉石あかだまいし」(佐渡)を同時に取り寄せて載せています。*1
①出雲石(来待石)(凝灰質石灰岩)のペンダント
目にとまった画像はこちら。コンクリみたいな普通の石で、形は長方形角とアーモンド型の2つ。値段は3800円。
こら渋いっ。ほんといったい誰がつけるのかな?です。
このシリーズ、他にも尺谷石しゃくだにいしや十和田石などみためが似た石から選べるのですが、特にふつうの石感が強いこの出雲石とやらを買ってみることにします。
ということで、さっそく送ってもらいました。
うーん、グランドの砂を固めたようなみため!ほんとに石!って感じ。
この出雲石、とれたては青味のある灰色といい、時間がたつと黄色に変化するといい、こういう感じなのか。
もっと研磨・コーティングしたら、もう少しアクセサリー感が出そうなのにそれは不向きなのか、本来の地を楽しむものなのか?謎ぶかい。
ほんとにいったいどんな人が買うのでしょうか?(あぁ~気になる)
石の説明には「出世開運・商売繫盛・縁結び」とあり、そうした効果を信じる人もいるのでしょう。
試しに尺谷石(デイサイト軽石火山礫凝灰岩・福井産)を置いて比べてみます。尺谷石は青みが特徴の石でちょっと似てる気がしたのですが、似てるようでやはり違いがあります。
さて、書かれていた「出雲石」で検索をすると出雲めのうばかりが出てきて(あれっ?)と思うのですが、この砂岩の名前はおそらく「来待石きまちいし」。*2
来待石は松江城の築城や現在は’出雲石灯ろう’などに使用される石で、下記の「来待ストーン」という施設のサイトにはこの石のことが詳しく紹介されています。
興味のある方は覗いてみて下さいな。
②赤玉石
もう1個取り寄せたのが「赤玉石」ですが、こちらは人目を引くハッとするような赤い石で、昭和50年代以降産出量がほとんどない・採掘が禁止されているなど、高値で取引されるのをみかけるものです。
しかし、そんな稀少な石が数百円で買えるものなのか?
もう本物じゃなくても見てみたい!ということで、同じお店にあった商品を送ってもらいました。
実物はサイトの写真そのままの、まるでレバーのようにツヤツヤと輝くきれいなものでした。
あまりにつるピカで、ほんとに佐渡の赤玉石?とは思うけど。
赤玉石の赤には、朱肉のような赤から褐色の赤まで色に違いがあり、掘る場所が1m違っても色味が違うといいます。
さて、この不思議な赤色の正体は何かというと鉄分で、赤玉石は酸化鉄を多量に含む石英(レッドジャスパー)ということになります。たしかに石を持った感じはまんま水晶でした。
石に入った白い筋も石英(水晶)で入り方もかっこいいなぁと思います。
佐渡ではこの赤玉石を魔除けに玄関や床の間に飾るといい、そうしたお宅をぜひ見てみたいし、
赤玉石の現在の状況(採取量・採取地・流通量など)を佐渡に行って確かめたい!という結果、すごいやる気が湧いてきたパワーストーンとなりました。
最後に
ということで、気になっていた2種類の石を取り寄せてみました。
来待石のペンダントはこれ以上ないくらいの「石!」で、アクセサリーの概念を越えてきて面白かった。もちろんつけてます!
(もう少しツヤがあるといいな~というのはあるけども)
赤玉石の方はとても綺麗で、さらなる興味とヤル気がわいてきました。
石は買いだすときりがなく、まさに修羅の道。上手につきあわなくては、と思いながら、以上、『そのへんに落ちてるような石のペンダントを買ってみた』でした!ではまた!
汚川で川砂利を拾ってみた。矢田川ではどんな石が拾えるのだろうか?(名古屋市東区)
どこでも都市部を流れる川は汚れているかと思いますが、今回取り上げる地元・名古屋の川だってもちろんそう。市内に入る前にいずれも汚れており、名古屋港へは相当な汚水となってそそいでます。
そんな中、先日、電車に乗っていると矢田やだ川沿いにに砂利石が広がっていることに気がつきました。*1
(市内の川石!どんな石があるのだろう?すごい汚なそう!)と、川原の石を拾い集めている私はとても気になりました。
さて、名古屋市内の川原でどんな石が拾えたのでしょうか?
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①矢田川橋下で採集する(東区矢田)
ちょっとわかりづらいですが、橋の下によくみると白い砂利の河原があります。まさに車窓からみたのはこの風景!怖いものみたさもあってテンションが上がります。
(事前にストリートビューで確認すると橋の横にテントが写っており、先住の人がいるのだろうか?と思ったりでしたが人は居らずでした。)
早速、河川敷から川原の方へ向かいます。
橋脚のところに石がたまっていて、願ったかなったりの光景なのですがドブ臭い!
下水臭が気になって(これは長居はできないな。10分でやろう)という短期決戦の気持ちに。水もミドリ色というかドブ色というかひょっとしたら体に害があるレベルかも(魚はいるそうな)。
素手ではさすがにためらわれるので、持参してきたビニ手で石を探していきます。途中、「何やってんだぁ?あれ」という視線も感じますが、(燕雀えんじゃく安くんぞ)の気持ちでシレ~っと進めます(別に大志はないけど)。
結果、意外とチャート*2ばっかりで、しかも日焼けか川質なのかどれも色抜けしています。
あまりにチャートばかりだったで拾うのやめようかな?と思ったのですが、今回は「これ何だろう?」という判別がつかない石を拾ってみました。
最近こういう何の変哲もない、駐車場の砂利石みたいな石が気になっていたので拾ってきました。チャートばかりでこうしたただの石も少なめだった。
何でしょこれ。園芸用の何かみたいだし、砂岩のようでもあるし。穴が開いて軽いから軽石みたいと思い、水に入れてみたけど浮かばずでした。
この軽いキラキラ地味石も残念ながら今の私の知識ではよく分かりません。
②矢田川の川原と川石のまとめ
◯チャートのほかガラス片・陶器片なども多めで、雑多なものが落ちている川原。上流とは違い、石やゴミがどこから来たのかを考えると興味深い。
◯石はだいぶ摩耗、色抜けしていた。
◯橋の下っていうのは溜まりやすい場所なんだな(砂利・ゴミその他)ということが今回すごく体感できた。
◯上流部(例えば「海上かいしょ川」)との水の綺麗さは雲泥の差で、10何㎞くらいしか離れてないのにあっという間にドブ川になることにも驚いた。
◯チャートが多いのは庄内川かと思いきや矢田川も?ということで、今後さらに矢田川産の石について調べたい。
最後に
ということで、名古屋市内の川で石拾いなんかできるのか?というのを試してきました。想像通り、市内の川の汚れを体感することができました!
また、冒頭で「市内の川は全て汚れている」と言い切ってしまいしたが、次回はまだキレイかもしれない守山区の庄内川へ行き、さらに調べたいと思っています。
また面白い場所で面白い石を拾えたら、記事にあげたいなと思いつつ、以上、『汚川で川砂利を拾ってみた。』でした!ではまた!
奇妙な鉱物「ペグマタイト」が見たい!花崗岩とはどう違うのだろうか?(中津川市鉱物博物館)
ペグマタイトという聞きなれない名前の野趣に富んだ鉱物があります。以前にも出会ったことのあるこの「ペグマタイト」について今回はとりあげたいと思います。
中津川なかつがわ市の苗木なえきという場所はこのペグマタイトの3大産地ということで、たくさんの実物がみれるに違いないと「中津川市鉱物博物館」に行ってきました。*1
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①そもそもペグマタイトってなんなんだろう?
ペグマタイトの説明を読んでると何やら難しくて頭が痛くなるのですが、読み取れる大きな特徴は、
◯組成は花崗岩と同じ粗粒な岩石
◯中に空洞(晶洞)ができやすい。晶洞の外側がペグマタイト。晶洞の中には水晶・トパーズ・蛍石などが成長したりする、というもの。
しかし、これだけではイメージできません!実際のものを見にいってみましょう!
②「中津川市鉱物博物館」蔵のペグマタイト
中津川駅の北約8kmにあるこの博物館は、長島さん親子が収集されたコレクションを中心に1998年に開館しています。みどころはここに産する苗木花崗岩からのペグマタイトやその他苗木産の鉱物です。*2
ということで、館内に入ってみるとさすがはペグマタイトの産地!完璧な標本がいくつもあり、人もいないしで、石と自分だけの空間を堪能することができます。
左なんか、いかにも岩肌が花崗岩ですが粒の粗い結晶があることに気づきます。また右の写真の1番右、黒い水晶は苗木に見られる「煙水晶(黒水晶)」と呼ばれるもので、こうした色は苗木の放射線の作用によるといいます。
上の石に出ているマキビシのようなのはいったい何が成長したものなのか?左端からは大きな水晶が突き出したりで、何だかカオスです。
ペグマタイトは晶洞を持ち、中に鉱物が成長するという通り、晶洞の中に規則性を持ちつつ、結晶化した石が突き出す様は本当に不思議。
しかし、花崗岩と同じ素材のはずがなぜこんな姿に?という疑問がわいてきます。これについては展示の説明をそのまま引用して、
「ペグマタイトは、まわりの岩石と比べてひとつひとつの鉱物の粒が、とてもあらくなっているものをいいます。ふつうは塊や脈のようになっています。これは、マグマが地下深くで固まり、岩石(ここでは花崗岩)になる最後に、マグマの残液に水蒸気やフッ素、塩素などの気体が集まり、これらに富んだ残液がゆっくり固まるとあらい粒の結晶になるのです。空洞ができると、結晶も大きくなります。これを晶洞(ガマ)といいます。」引用:中津川市鉱物博物館の展示より
ということで、マグマが冷える時の状況による違いということになります。
③「ストーンハンティング」(水晶探し)
さて、素晴らしい標本を堪能したところで博物館前に出てみると「すいしょうひろば」という砂場があり、なんと!入館者は無料で水晶探しの体験をさせてもらうことができます。
砂場の砂利は、博物館裏山の水晶が出る場所のものということで、たしかに日があたるとキラキラと輝き、ヤル気を誘います。
水晶探しをしたいと館に申し出るとお皿と竹ベラを貸してもらえ、制限時間は30分。みつけた水晶を1個だけ持ち帰ることができます。
ということで私も水晶を探しますが、(本当に欲しいのは苗木の花崗岩!)
ちなみに小さな小さな水晶をいくつかみつけることができました(六角柱のタイプなど)。
写真では分りづらいのですが、キラキラとした表面の内側に空洞があり、結晶化した小さな水晶が顔を出しています。
これルーペで観察するとすごい面白いです。今まで晶洞の石なんか(アメジストとかの開運系の)悪趣味に思えていたのですが、どうやって鉱物が成長したのかが分かるのが面白いんだ!ということに今回やっと気がつきました。
最後に
さて、持ち帰ったこのペグマタイト(と思しき石)、水で洗い、ビニール袋にいれていたら、藻みたいなのが生えてしまいました!この花崗岩、中が空洞で水分を含みやすくしっとりとしているのでもっと入念に乾かすべきでした!
そして思ったのは、これが露天で水がしみこみつづけば内部からもろく、建材には危険な石なわけですが、
博物館のそばの苗木城にあった巨岩の石垣。あれはどうなんだろうなと。石垣には「危険」と注意喚起してあったけれど、確かにいつかは崩れそうな風情をしていました。
そうした疑問も含めこれからまた調べてみたいなぁと思いながら、以上、『奇妙な鉱物ペグマタイトが見たい!』でした!ではまた!
中津川市鉱物博物館
【開館時間】9:30-17時 【休館日】毎週月曜日
【入館料】330円(小・中無料)
【ウェブサイト】中津川市鉱物博物館/中津川市
【推理小説】『大雷雨夜の殺人』の殺人現場は名古屋のどこだったのか?
名古屋が舞台の殺人事件と聞いて、えっ、勝地の少ない名古屋のいったいどこで殺人が?と興味を持つ人も多いかと思います。
先日、その名古屋で起きた殺人を描いた、昭和3年発表の『大雷雨夜よるの殺人』(小酒井不木ふぼく・1890-1929)*1という作品を読みました。
この短編小説、犯人が判明するや2ページであっというまに幕切れになることにも驚くのですが、今回は殺人事件は名古屋のいったいどこで起きたのか?をみていきたいと思います。
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①『大雷雨夜の殺人』のあらすじ(簡単に)
8月のある夜、大雷雨のあった名古屋の町で殺人が起こります。
犯人と思しきしまうまの衣装を着た男が目撃され、門前中署の名探偵刑事が事件を追いますが、調査を進めるうち、被害者は記憶喪失のフィリピン帰りの男で、ある女性を探していたことが判明します。
シマウマ男は?記憶喪失の男の過去は?彼が探していた女性の正体は?、という内容なのですが、結末はさておき、ここで興味があるのは事件はどこで起きたか?ということです。
②「鶴舞公園で殺人」という思いこみ
さて、そもそも私が何からこの小説を知ったかというと下の本なのですが、
この本の60ページに、「『大雷雨夜の殺人』では鶴舞つるま公園が舞台になっている。」と書かれており、「あー、そうなの?」と思ったわけです。
この鶴舞公園、名古屋の人はほぼ知ってるであろう、明治42年(1909)開園の古い公園で、なるほどなるほど、小説の殺人事件など毎日起こってもおかしくないほどの広さと身を隠せる建物やカラスだらけの林などがある場所です。
ということで、「鶴舞公園で殺人事件」と思って読みはじめたわけですが、
鶴舞公園の記述は一切出てこず(あれ?)、予想に反して殺人は偕楽町・若葉町という場所で起こります。
えぇ、偕楽町??若葉町??(そんな地名あるのかな?)
この他にも紅山町とか聞いたことのない町名が出てくるのですが、時代は昭和初期。これらは昔の名古屋の町名なのでしょうか?
(しかし、あの本には「鶴舞公園が舞台」とあったし、鶴舞公園ふきんの町名?)としばらく悩んでいたのですが、やっぱり、どこで殺されたのか気になります!
というわけで、鶴舞公園の中にある鶴舞中央図書館で昭和初期の地図を見せてもらい、偕楽町を探したのですが、今度はそんな町名は存在しないことが判明!
うーん。この「偕楽町」、昔の歓楽街みたいなあってもおかしくない町名だと思ったけど、作者の創作だったのでしょうか?
そして「鶴舞公園が舞台」というあの一文は、結局のところ間違いであったと思うのですが、こう書かれたのは作者が鶴舞公園を舞台にした他の作品を書いているので、それと混同したのかなと思います。
「小説で読む名古屋」では、不木の他の作品の概要をみることができます。ここでは、名古屋が舞台の小説を一覧表にして紹介しているのですが、その量たるや驚くほどで心がちょっと折れたり。文芸作品からはご縁がなさそうな名古屋の町がこんなにも舞台になっているんだとか、鶴舞公園は登場頻度が多いなぁなど、みていると発見あり。
③その他のみどころ(少しだけ)
他にもこの小説に出てきた地名をみてみると、大津町(中区にあった町名)、門前署(中区にあった中警察署の前身)、大須・七ツ寺ななつでらの芝居小屋、本町のカフェーなど今につながる地名を拾うことができ、
そうした地名とともに昭和初期の名古屋の雰囲気が感じられて心ときめきます。
殺人とあまり関係ないカフェーのモダン・ボーイの痴態に長文をさいたり、境内の芝居小屋・見世物で縁日的に賑わったという大須観音の様子など、そこだけ読んでも面白かったり。
また朝鮮で人夫誘拐団に襲われ、フィリピンに売られるという身の上話や殺人が暴かれた後、関釜連絡船で高飛びしようとする犯人など、外地や海外が頻繁に出てくるのも時代だなぁ、いいなぁと思います。
最後に
ということで、『大雷雨夜の殺人』の殺人現場は名古屋のどこだったのか?をみてきました。
現場は、「偕楽町」という架空の地名(?)であったのですが、シマウマ男のいた大須からはそんなに遠くない設定なので、鶴舞公園ふきんは妥当と思えるし、文中に偕楽町・若葉町は以前盛り場だったとあるのでもっと大須寄りかとも考えられます。*2
今回は場所の特定はできませんでしたが、ご当地小説は土地勘があれば、話がググっと立体的に鮮明に浮かんできます。普通の小説を読んで感じるモヤモヤ感に疲れたら、ご当地小説いいかもねーです。
これを機に不木の他の作品を読んでみようかな?と思いながら、以上、『殺人現場は名古屋のどこだったのか?』でした!ではまた!
【参考】不木の小説が読めるのは、
◯『ふるさと文学館』(「大雷雨夜の殺人」を所収)
『ふるさと文学館』は各都道府県の作品がよめるシリーズ。図書館にあることも。
◯『小酒井不木探偵小説全集』本の友社 ほか
「京都の有名なお墓巡りがしたい②」(「秀次悪逆塚」瑞泉寺、「阿弥陀寺」)
前回ブログ、『京都の有名なお墓巡りがしたい』の後編です。
後編では、秀次の「悪逆塚」のある瑞泉寺、信長のお墓のある「阿弥陀寺あみだじ」の2つをお参りしています。
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①「瑞泉寺」(中京区)
鴨川・三条大橋のたもとによくみないと行き過ぎてしまうような間口の小さなお寺・瑞泉寺があります。
この瑞泉寺、豊臣秀次一族の菩提を弔うため、京都の豪商・角倉了以らによって創建されました。
このお寺のある場所こそ、1595年(文禄5)、自刃に追い込まれた秀次(1568-1595・秀吉の甥)の首がさらされた「秀次悪逆塚(殺生塚・畜生塚とも)」があったところといいます。*1
絵巻などでみると鴨川の中洲に2段の塚を築き、その上に西向きの石の祠があるのが見えますが、この中に秀次の首を納めたといい、境内の供養墓にその秀次の首を置いた「石びつ」が安置されています。
当初、この石びつには「秀次悪逆塚」の文字が彫られていたといいますが、’秀次悪逆’の字は角倉了以らによって削られ、現在では秀次が自害した「七月十五日」の日付が何とか読める感じ。
瑞泉寺にはこの「秀次事件」の展示があり、上は処刑された一族39人(妻など34人、子供5人)の辞世の句と姿を描いたもので、そうした展示ををみるとやはりこれは実際にあったことなのか!と衝撃をうけます。
瑞泉寺のパンフ・説明板には、処刑された順番までが載っており(子1、婦1など)、どんな気持ちで処刑を待っていたのだろうかと暗澹たる気持ちに。
市中引き回しにされた秀次一族は、塚の上に置かれた秀次の首が見守る中(命じた秀吉はとんでもないサイコパスでは?)、次々に処刑、遺体は大穴に放り込まれ、その上に先ほどの塚が築かれたといいます。
側室ら20人の実際に着ていた衣装で表装された「辞世の句」の掛け軸の衝撃!
2021年、刈谷市歴史博物館(愛知県刈谷市)で「豊臣秀次展」が開催され、2幅出展されていましたが、豪華絢爛な刺繡・色の鮮やかさは何百年という時を感じさせず、これまた驚きでした。
②阿弥陀寺(上京区)
さて、最後の阿弥陀寺あみだじですが、この阿弥陀寺、あの信長の骨を埋葬したお寺といいます。
あれっ?信長の遺体はみつからなかったのでは?と思うのですが、
『信長公阿弥陀寺由緒之記録』によれば*2、本能寺の変の際、信長と懇意だったこのお寺の清玉上人が本能寺にかけつけると、切腹した信長を家臣らが今まさに火葬にしようとしている場面であったといいます。
火葬と菩提を弔うことを引き受けた上人がそのまま火葬にし、骨を寺に持ち帰り、信長の墓所としたといいます。
その後、河原で休憩している明智光秀に許可をとり、本能寺・二条城で討ち死にした者らの遺体も合わせて引き取りますが、その中には信忠や家臣らのものがあったといいます。
こう聞いて、そんなに首尾よくいくものか不思議ではあるのですが、信長と阿弥陀寺の清玉上人が親しかったこと、本能寺の変の翌月にはお墓があったという記録など*3、ぜひ1度はお参りしてみたいお墓となっています。
最後に
ということで、京都の気になるお墓巡りをしてきました。
巨大な姿に圧倒される「耳塚」、大石段のその先の京都の町を見下ろす「阿弥陀ケ峰」、平安からの葬送の地・鳥辺野、秀吉の異常さを感じる「秀次悪逆塚」など個性のあるお墓ばかりでたいへん見ごたえがありました。
ちなみに、秀次の首はいつのまにか’悪逆塚’から移され、「善生寺」にお墓があるということなので、次回はそこもお参りしたいな、などと考えています。*4
というわけで、以上、『京都の有名なお墓巡りがしたい②』でした!ではまた!
【参考】
◯楠戸義昭『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』2017
「京都の有名なお墓巡りがしたい①」(秀吉の眠る「阿弥陀が峰」・鳥辺山墓地・耳塚など)
京都の有名なお墓巡りがしたい、ということで、先日、京都に行ってきました。
朝鮮の役の際の「耳塚」。秀吉の眠る「阿弥陀ケ峰」。行きたかった清水寺の下にある鳥辺山墓地。
また後編では、秀吉の甥・秀次の「悪逆塚」。信長のお墓のある「阿弥陀寺」と見たかったお墓巡りをしています。
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①巨大な塚はいったい誰の為?の「耳塚」
さて、京都駅で降り、崇仁などを通り、まず秀吉の眠る阿弥陀ケ峰に向かいます。
豊国神社を目指して歩いていくと、神社の前に有名な耳塚がどどーんと現れます。
この耳塚、慶長・文禄の役(1592~・1597~)で殺害した朝鮮人の耳・鼻を供養した塚で、その数2万人分だとか。
しかし、予想以上に大きな塚!上にのる五輪塔もビッグですごい威圧感!
地図で測ってみるとその幅22m以上。また上からみると円ではなく、八角のような形をしています。
周囲が驚くほど端正なのは大正時代に整備したせいで、八角にしたのもその時なのでしょうか?
【感想】秀吉のパフォーマンスを感じる巨大な塚。
1598年、完成したこの耳塚で秀吉の命により、盛大に「鼻供養」が行われたといいますが、巨大な塚やその盛大な供養は、自己の演出の1部だったのではないか、と思うと気味の悪さを覚える。
ということで、秀吉が巨大な物が好きという話は本当なんだな、と妙に納得しながら、今度はその秀吉の眠る阿弥陀ケ峰を目指します。
②秀吉の眠る「阿弥陀ケ峰」
京博の辺りから女坂を東へ登ると、豊国廟の二の鳥居が見え、登り口案内所がみえてきます。
登り口で100円を納めて、石段にとりかかります。
木々が鬱蒼と影をなし人気もなく、ちょっと怖く感じる参道ですが、565段ある階段の前半部分は踊り場部分が設けられ、若干登りやすくなっています。
けっこう階段がきつく、休み休み登ります。登り口の注意書きに「手すりがなく、街灯もないので夕方の参拝はやめましょう」とあった、あれは本当だな~と思ったり。
階段の最後は踊り場も消え、高所恐怖症の私は心の中で泣きながら、登りました。
さて、196mの頂上にある秀吉のお墓には超立派な五輪塔が建てられ、威容を放っています(高さは10mほど。設計は伊東忠太)。
大阪の役後、家康により、豊国神社・豊国廟は破壊されますが、明治に再興され、さきほど登った長い石段やこの立派な五輪塔はその時の整備によるもの。
そしてその整備の際、壺が偶然発見され、中には手足を組み、ミイラ化した秀吉の遺体が見つかったといいます。
自身の社殿・廟を破壊されたり、盗掘に遭い、副葬品を盗まれたり、石棺に納まっていたところ、いつのまにか壺に移しかえられたり、偶然発見されて遺体がボロボロにされたり、そうした秀吉の姿をイメージしつつ、頂上をぐるりと1周します。
木々の合間からは京都の町がみえ、やはりここから秀吉が町を守護しているように思えたり。また、お墓の背後からはさらに山の奥へ行けそうで面白そうなのですが、先ほど上がった階段を(心の中でまた泣きながら)、下ります。
さて、最初に登りはじめた「登り口案内所」がある場所こそ、かって壮麗な社殿があった太閤坦たいこうだいらと呼ばれる場所で、その隅には秀吉の愛妾・松の丸殿(京極竜子)と処刑された国松(秀頼の庶子)の供養塔がよりそうように置かれています。
それまで父に会うことすらなく暮らしていた国松が、会った数か月後には市中引き回しのうえ、斬首にされるというストーリーを思うと可哀そうでたまりません。
【感想】階段が大変。手すりもないし、年とったら、お参りできなくなるかもしれない。でも、京都を望める立地と人があまりいないのがとても魅力的な場所。
③清水の谷を埋める一面のお墓「鳥辺山墓地」「大谷墓地」
阿弥陀ケ峰をおり、今度はさきほど山頂からみえた清水の坂の下をめざします。
大谷本廟の北側の道ですが、観光客で混みあう産寧坂・茶わん坂とはまるで別世界。落ち着いた佇まいにホッとします。
うわーすごい!清水の谷を覆う一面の墓・墓・墓。そしてそこからみえる京都の町。
この上の清水寺や参道では今まさに観光客が生を謳歌し、坂下のこの道は千数百年来の死者を抱き続けるというものすごいギャップに少し頭が混乱します。
【感想】時間や空間を考えたり、空に浮かぶ雲のようにあっというまに消え去る存在なんだなという切ない気持ちやいろいろな想念の浮かぶ場所。
さて、「鳥部野とりべの」という古来有名な京都の葬送地は、もっと広範囲をさしたようですが、現在の鳥辺山墓地・大谷墓地もその中に含まれます。今あるお墓は江戸時代以降のもので、墓石の銘など江戸のものが多くみられました。
そして、その下には平安時代以来の骨が土と一体となり、きっと谷を埋めていることでしょう。
最後に
というわけで、見たかった京都の「お墓巡り」をしてきました。人がいない場所を行く、静かな京都旅行です。
後編では、豊臣秀次の「悪逆塚」(瑞泉寺)、信長のお墓のある「阿弥陀寺」(京都市上京区)を載せる予定です。ということで、以上です!ではまた!
個人的に面白いもの・かわったもの。それ要るのか?雑貨など総集編②【2021年購入】
先回ブログの後編です。今年増えた、個性ある雑貨たちを載せています。
下記は前回ブログです。
- ①「サトーココノカドー」のエコバッグ
- ②バラバラ分解・インドスィーツ「ソーンパプディ」
- ③赤ちゃん用とはとても思えないゴツい飴「幽霊子育て飴」
- ④絵がホラーすぎて眠れなくなりそう「ダニがホイホイ」
- ⑤百鬼夜行柄の「アロハシャツ」
- ⑥くまちゃんのお酒「ポンエペレ」
- 最後に
①「サトーココノカドー」のエコバッグ
『クレヨンしんちゃん』を視ていた人は、「サトーココノカドー」と聞いてきっとピンとくるのでしょう。
しかし、全くみてない私はヨーカドーでこれを見て、「クレしん」とはまるで知らず、欲しくなりました。
(後でタグで気づいたけど、ヨーカードーのパロディ商品と思っていた。)
空を覆って飛ぶ’コウモリ’の大胆なデフォルメ。しかし目立ちすぎずと、とても気に入っています。
『クレしん』を知らないもののこれ以後、そのデザイン性に開眼。チェックするように。しんちゃんのパジャマ柄なども可愛いです。
【満足度】★★★★(白いエコバッグは汚れやすく、持ち手がうっすら汚れてくるのみマイナス)
【サイズ】14.7×31×61cm 【価格】(amazonで)718円
【買った場所】ヨーカードー(現在はamazonなどで)
②バラバラ分解・インドスィーツ「ソーンパプディ」
ソーンパプディ?、何だそりゃですが、インドの伝統的砂糖菓子なのだとか。
インドのスパイス香るふわふスィーツということで、不思議の国インドの食べ物にそそられ、買ってみました。
さてパッケージを開けると、ソーンパプディが長方形の固まりで入っています。
まず切るのがめんどくさい!しかも、バッラバッラになってしまうという。
「!」(食べ方が間違ってるんかコレ?)と自分を責める気持ちに。
うーん、食べづらい!食感は想像通りのパサパサ。ほどよい甘さのパサパサ砂糖菓子という感じ。確かにスパイスの香りがインドぽいっけど。
向こうの人はどうやって食べているのか、動画などで調べてみたらよかった?
【満足度】★(味は人好き好き)
【価格】450円 【容量】約250g 【買った場所】amazon
【原材料】砂糖、ギー、ひよこ豆、カルダモン、アーモンド、ピスタチオなど
③赤ちゃん用とはとても思えないゴツい飴「幽霊子育て飴」
先日、京都に行った際、「幽霊子育て飴」を買いました。そうそう、妊婦だった幽霊がよなよな自分の生んだ子供のために買いにきたという、あれです。
パッケージを開けるとこうした四角い茶色の飴が入っています。
試しに1個のサイズを測ってみると、2.5cm×1.5cm×1cmという感じ。
でかい、でかすぎる。口にいれると角が口内に当りゴツい。もちろん溶けるまで相当時間がかかります(飴じたいは美味しい飴)。
このゴツい飴を赤ん坊に食べさせたのでなく、お母さん幽霊が精をつけるために食べたというならまだ納得のいく感じ。
江戸時代以前からある食べ物を食べられるのはとても嬉しいのですが、現代版に食べやすい半分サイズにしたり、170g1包ではなく、お土産に配れるように小分けにしたらいいのに、とちょっと思ったり。
【満足度】★(味は人好き好き)
【価格】500円 【容量】170g
【買った場所】「みなとや子育て飴本舗」(京都市東山区轆轤町東入ル西・10時-16時)
みなとや幽霊子育飴本舗 – 450年以上続く日本一歴史ある飴屋
④絵がホラーすぎて眠れなくなりそう「ダニがホイホイ」
よなよなベッドでお菓子を食べる旦那さんがダニに刺されるというので、ダニ除けグッズを買いにいきました。
気になっていた「さよならダニー」を買うところ、店頭でみかけたこの「ダニがホイホイ」のホラーっぷりに目が点に。
伸びる手も真っ黒なダニも、やたら大人びた赤ちゃんの顔まで怖い!
子供だったら、トラウマになりそうなこの商品、2021年の記憶に残る商品となりました。
【満足度】★★★★★(ダニにさされなくなった)
【価格】767円 【買える場所】ドラッグストア、ネット
⑤百鬼夜行柄の「アロハシャツ」
ネットを見ていて、たまたま目についたこの男物のアロハシャツ。
百鬼夜行のデザインが動的で、造型もみればみるほど素敵。着るかどうかは分かんないけれど、値段が激しくオフだったので買ってみました。
さて、実際に物が届いてみるとこのアロハ、男物なので当然、ぶっかぶっか。しかも生地が化繊で風を通さないし、夏には暑苦しくてとても着れないなぁ、というものでした。
あっ、また無駄なものを買ってしまった?とも思ったのですが、プリントは写真通り素敵でした。魔改造を加えたり、裁断して何かに転生させようかと考え中。
【満足度】★★(アロハなのに涼しくない)
【価格】2969円(現在は3650円)(定価8800円)
【カラー】白・黒・紺の3色 【買える場所】amazon
⑥くまちゃんのお酒「ポンエペレ」
くまちゃんのお酒「ポンエペレ」は以前、北海道でみかけて気になっていたもの。
今年の年末年始用に取り寄せてみました。
箱を開けると、存在感のある熊の酒器が入っています。
ポンエペレは、アイヌ語で「仔熊」の意味なのだとか。
頭が取れて、盃になるとは知らなかった!1人晩酌にいい感じ、なんか侘しさにも凄みが増しそう。
さて肝心の味ですが、かなりの辛口で、寒い日に飲むと胃にきゅーときます。
【満足度】★★★★(珍しい。唯一無二の酒器)
【製造元】福司酒造(北海道) 【価格】1540円(2021年12月現在・amazon)
【サイズ】15.7cm×11.6cm×9.9cm
【内容量】300ml 【アルコール度数・風味】15度・辛口
最後に
ということで、今年ブログに上げなかった細かい雑貨などを取り上げました。
それ要るの?というものを買い、一人悦に入るのも気力・体力がないとできません。
物欲すら、年々衰退傾向だなと思うのですが、来年また雑貨を、それもいぶし銀のように渋いのを紹介できるようがんばりたい!と思っています。
というわけで、本年度、みて下さった方本当にありがとうございました!よいお年を!
ではまた来年!
下記ブログでは、2019年に集めた雑貨などを紹介しています。今とだいぶ違うティスト。
【書籍】『中世ふしぎ絵巻』の不思議なイラストとその内容とは?【中世の怪異譚】
先日、気になっていた、『中世ふしぎ絵巻』というまるで絵巻のような本を買いました。
なかみが想像しづらく、タイトルの怪しさ、表紙のイラストとともに???だったのですが、今回はこの本の内容について書いてみたいと思います。
①絵巻ぽいイラスト
この本の珍しい点は、まるで絵巻のように、長方形の見開き画面(横約51cm×縦15cm)に中世の怪異譚をイメージした絵が広がるところで、全27話の全てにこうした見開き絵を収録しています。
そのぶん、値段も3200円(税抜)と少しお高め。
この絵巻本の最大のポイントは、やはりこの挿し絵が好みかどうか?という点にある気がします。
なんせ本の半分が絵なのですから!
このイラスト、明るい色づかいのたいへん可愛らしいものなのですが、昔の絵巻物をイメージしていた私にはちょっとポップすぎる印象でした。
この数枚の写真では絵のニュアンスは伝わりにくいと思うので、興味のある方はぜひ実物を!自分もアマゾンのレビューの写真でしばらく悶々としておりました。
②『中世ふしぎ絵巻』の内容
さて、絵巻本の内容ですが、旅の月刊誌『ひととき』に絵とともに連載されたものをその後、出版したというもの。
【著者】西山克 【絵】北村さゆり
【発行】株式会社ウェッジ(2017年)
文章のほうは、日本中世史などが専門の先生が書かれているので、なかなかの読み応え。
その分、絵が挿まれるといい具合に気がゆるみ、また1枚の絵が話の全てを表しているので、怪異をイメージする手助けをしてくれます。
収録された27話は、おもに日記や文献、また物語・説話集などから採られた中世の不思議な話の数々です。
例えば、神殿の柱に「金花・銀花が咲いた」とか(正体は昆虫の卵)、山だのお墓だの器物まで鳴る鳴動の不思議や、いん石に彗星・人魂などの「光りもの」の話。
頭が猫、胴体が鶏、尾が蛇という色々合体した怪鳥が出現したり、定番・狐の怪に、馬がしゃべるなど動物がらみの怪異。
また、将軍家の室町御所で家鳴りがし、巨大な妖物が現れてついには人の頭を食べた、という恐怖事件などなど。
この他にも、川湊に居たという遊女集団や吉田神道を作った吉田兼倶(かねとも・1435-1511)の話。中世には「虹が立つと市を開いた」という故事など、いかにも中世ぽいお話が続きます。
③個人的な感想や発見
こうした「中世100%の話」を続けて読み進むうち、ほんのちょっぴり頭が’中世脳’になっていく気がしました。
この本でも取り上げられている、器物の怪をモチーフにした『付喪神つくもがみ絵巻』ですが、「なんで器物の霊なんだろう?」とどこか不思議な気持ちがしていたものです。
しかし読んでるうち、昔は今と違って家財なんか100年ものとか、壊れなかったら200年とか、とんでもなく物持ちがよかったのかもしれないな、と。
そんな古色蒼然とした長持ながもちだの、いつからあるのか分からない盥たらいだの、家にある家財にはけっこう不気味なものがあったんじゃないか?という想像もひょっこりと浮かんできました。
また、『春日権現験記かすがごんげんげんき』という春日明神の霊験を描いた絵巻についても書かれているのですが、
下の竹の上にいる美しい女性が春日明神で、「なんで竹の上にいるんだろう?」とこれまた不思議に思っていました。
『春日権現験記』は、この「竹の上に静止する異常」をはじめとして、ゾクッとさせられるカ所のある絵巻。
この絵巻にふれた本文で、
「中世を生きた人々は、その竹のしなりのうえに聖なるものが乗っていると考えた。」
引用:「竹林の女」86Pより(『中世ふしぎ絵巻』所収)
とあり、(あー、そういうことなのかー)と目から鱗でした。
竹林の中のあの葉のざわめき・竹のしなりに、心がざわめく・妙な胸騒ぎを感じる人は私の他にもいるのではないかと想像をするのですが、
中世の人ももしかすると同じ気持ちではなかったのか?と。
最後に
ということで、『中世ふしぎ絵巻』の内容をところどころみてきました。
この本の大きな特徴の「絵」は、人好き好きかと思います。また、本文中の「中世の怪異譚」は文献から、丹念に描写をされています。
こうした怪異譚は、いっけん荒唐無稽すぎて、これまで読み流してしまうことも多かったのですが、その裏に潜む人間の姿があることをこの本では示唆してくれています。
怪異の羅列の背後にあるもの、そこに人間の意図がないかじっくりと考えてみること。この本が教えてくれたのはそうした丁寧にものを視る視点だったと感じています。
テキトーに流さずちゃんと読もう!と思いながら、以上、『中世ふしぎ絵巻の内容とは?』でした!ではまた!