心に響く名言・有名人の言葉を最近のネットから拾ってみた。
ここ数年で目についた、ネット上の発言・有名人の言葉・名言などを30個ほど載せました。興味のあるところだけどうぞ!
①対人・生活に関する言葉
「過ぎたことは全部ゴミ、というくらい気にしません」
引用:コシノジュンコさんの言葉
潔い言い切りにハッとさせられるが、「過ぎたことは全部クソ(という位に気にしない)」と最近までちょっと間違えて覚えてた。
「好きな人には親切に。嫌いな人には丁寧に。」
引用:ネットの掲示板から(元ネタがどこなのかよく分からず)
人間関係はだいたいこれでいいんじゃないのかな?と思ったり、
「不幸の底にある者と幸福の絶頂にある者が隣り合わせて路上に立つことが日常起こるものだ。だから大人はハシャグナというのだ。」
正直、隣りに立つ知らない人の幸不幸にまで思いを巡らせたことはなかったので、自分の浅さに愕然とした。
「好き嫌いで動くのは人間が幼稚」
引用:掲示板より(詳細不明)
とはいっても好き嫌いの克服って難しい。
「なぜ味方を増やさないのか?」
引用:掲示板より(詳細不明)
確かにー。
「困った時に周囲を巻き込める人は有能」
引用:掲示板より(詳細不明)
「巻き込み力」というらしい。
「反論があるのは健全な証拠」
引用:掲示板より(詳細不明)
反論が無い方が実は異常(言えない雰囲気なのか、心が死んでいるのか。)
「強い意見には強い意見が集まる」
引用:掲示板より(詳細不明)
弱い意見には弱い意見が集まる。
「少なくとも1日に3回拒絶されなければ、建設的に生きているとは言えません」
引用:ロシェル・マイヤーズ
なんというポジティブ(笑)!
「人間が大好き!他人にめちゃめちゃ興味あります!とずっと思ってたけど、
人から「お前は"興味"を持っても他者とコミュニケーションしたい、とは思わず、
wikiを読むような感覚で"情報だけを得たい"と思っているところがあり、
厳しく、キショい」と言われ、何も言い返せず、世界から音が消え、大きな穴が
引用:解散さんのツィートより(2021・7)
https://twitter.com/yoiotto88/status/1415685417236451329?s=20&t=THACGgbRAmzC6qaj89vBug
うーん。実際が分からないから、なんともだけど、このつらくあたられようは気の毒。
②会話について
「女の話がつまらないのは、目的がないからではないか。内容はどうでもよくてとにかくコミュニケーション。」
引用:ネットの掲示板より(詳細不明)
たしかに、言葉数だけ多くてムダ弾(だま)ばかりという会話はある。
「会話なんてものは聞く技術がメイン。聞く力がない人との会話は正直言ってしんどい」
引用:田村敦さんのツィートより(2020・7)
聞く力がズバ抜けている人がたまにいる。そいういう人との会話はやはり楽しい!
「対処法を求める人と共感を求める人では、そもそも会話が成り立たない」
引用:ひろゆきさん(ひろゆきが教える「嫌なことを忘れる画期的な方法・ベスト1」)(2021.7)
対処法を探して答えてしまうクセを直さなくては(それじゃない人も多いから)。
「話がうまい人は言う必要がないことは絶対に言いません」
引用:ひろゆきさん(ひろゆきが語る「金儲けがうまい人、ヘタな人」決定的な違い )(2022.3)
賢い人は余計なことは言わないとー。
③不安や恐怖について
「知らないという感情と嫌いと言う感情は近い」
引用:西野 亮廣さん
「本当は一番必要なのに、日本の学校がまったく教えないこと」(2020.12)
この西野さんの発言と同時に思いだすのが、下のマツコさんの言葉。
「自分の理解できないことっていうのは恐怖じゃない?やっぱりみんなそれをうまく理解させてあげられる人が優秀な人なんじゃないの?」
引用:マツコ・デラックスさんの発言より
マツコさんのいうように、不安・恐怖の原因はよく分からないことから来る。だから、「大丈夫。たいしたことないよ」と言ってあげられる人でありたい。
「心配事を探すのが老い」
引用:武田鉄矢さん
本当にね~。
④勉強について
「学問ていうのは人間を驕り高ぶらせるものじゃなくて、自分の小ささを知るために あるもの」
引用:大津君(東大生)へのインタビュー(2021・8)
この発言の大津君を下の動画で初めてみました(けっこう早口なのね)。
「学問ていうのは、人間を驕り高ぶらせるものじゃなくて、自分の小ささを知るためにあるものなので」(大津,2021)
— Yuya Matsuki (@Yuya_Matsuki) 2022年2月18日
そうだよな…。糖分摂って、もう少し頑張ろう、と決意する。 pic.twitter.com/jK19rOk4Ph
勉強するのも学校に行くのも、「色んな考えがあるということを知るため」だったと気づいたのはだいぶ後で、自分は本当に出来の悪い人間だなとおもう。
⑤はっとする言葉
「子は親に己が大事な者と気づかされて初めて、他人の横暴と戦うことができる」
もし自分に子供がいたら、親の役割はこれを伝えるだけでいいんじゃないのかな?(あなたは人から愛され尊重されるべき人間なんだよって。)
「好きなものが無いのではなく見過ごしている」
見てるようで見てない。
(これ以上何を手に入れたいか?という質問に対して、)
「完全なる自由」
引用:与沢翼さんへのインタビュー記事より(新R25「この男はなぜ”稼げる”のか。投資家として生まれ変わった「新生・与沢翼」と徹底解剖!」)(2019・1)
「完全なる自由」。これをほとんど全ての人間が欲っしていると思う。
「生物は寝ている状態がデフォルトで起きている状態が異常」っていう最新の研究、本当いい。今すぐ布団に入りたい
— ぐちょん (@guchon) 2021年11月10日
これと対で「生きていること自体が異常(その後の’永い死’の方が常態)」という書き込みにも心ざわつかされる。
「かわいいと欲しいは違う」
引用:矢部浩之さん(TV番組での発言)
「あれが可愛い」と言うと(欲しいのか?)と勘違いされることがあるけど、そうじゃない。やべっちはよくわかっている。
⑥過去をふりかえる言葉
「もう1度出会った最初の頃からやり直せないか?」
引用:掲示板より(詳細不明)
時間を巻き戻すことはできないのだけども。
「やっぱ女性は綺麗に生まれて、綺麗な遺伝子を持つ男を見つけて、綺麗な時に結婚して、綺麗な子供産むべき そしたら綺麗な世界になる」
引用:掲示板より(詳細不明)
⑦主張があるのはなんかいい
「施されたら施し返す。恩返しです!」
引用:大和田常務のセリフ(ドラマ『半沢直樹』2020)
意志鮮明で素敵です(笑)
「買い物とは。人にとって必要なエネルギー源であり、心の栄養であり、コミュニケーションであり生きる喜びである。」
引用:石田ゆり子さんのインスタ より(2021)
石田さんは感性やライフスタイルが気になる人。
「言い切れないブログはつまらない」
引用:どこかのサイト(詳細不明)
あいまいな感じもそれはそれでいいんじゃない?と以前は思っていたけれど、きちんと言い切れることは意志があり、魅力的。
「…(てんてん)」もできる限り使わないようにしよう、と今は思う。
最後に
ということで、ここ数年で気になった言葉を30ほど取り上げました。
嫌なこと(悩み・不安)は実は誰しも一緒で、
それをどういう風にとらえるかという話ですが、
その思考の転換のアイデアをくれるのが他者の言葉(名言)かと。
心に響く言葉が1つでもあれば、幸いだと思いつつ、
以上、『心に響く名言・有名人の言葉を最近のネットから拾ってみた。』でした!ではまた!
下記は過去記事です。
【疑問】中国の奇石・怪石・珍しい石とはどんな石なのか?(あの「花石綱」で集めた石も知りたい!)
中国にも日本と同じく、石を鑑賞する文化があります。
日本でも趣ある石を庭に置いたり、室内に飾ったりしますが、こうした「水石すいせき」はもともとは中国伝来。
枯淡な日本の石と違い、中国は国土が広いせいか好みのせいか、ぐにゃぐにゃしたもの・変ったデザインが多いようだ、と何となく思っていました。
ということで、今回は中国の石文化を紹介した『奇石』という本から、中国の個性的な石を実際に拾ってみたいと思います!
また、中国史で有名な皇帝の石集め「花石綱かせきこう」ですが、
いったい全体どんな石を集めていたのか?興味があったので、これについても少しだけ載せました。
①中国の「奇石」をみてみよう!
上の本では、カラー写真多数で中国の「奇石」*1をたくさん紹介しています。
さっそく見ていきましょう!
まず、目にとまったのは中国の山に見立てた石。
単なる山景か、神仙の棲む山を表現しているのか、詳しい説明がなく分かりませんが、
こうした遠山石(とおやまいし)も日本に比べると華やかで中国らしさを感じます。
ちなみに下は日本のもので、すごくシンプルで、渋いものも多い印象。
さらにみていきます。
うーん、なんだこれ?というような不思議なかたちをしています。
中国の水石には石に名前をつけるという伝統があり、これは「鯉魚、龍門に跳る」という石名から、鯉の滝登りの見立てであることが分かります。
また、今までみてきた石、(石の大きさよりは)ボリューム感があったのではないか?と思うのですが、
これは頭を大きくし下を細くするという中国の水石の手法で、大きく魅せるようになっています。
さて、下の右側はいったいどうやってこうなんできた?とびっくりするような不思議な石で、今回1番気になったもの。ものは砂岩(台湾産)。
というように、石を自然物(山や川)に見立てる、神仏・動物に見立てるほか、
かわったところで「文字石」というものがあり、これは石に文字が書かれているように見えるものです。
上の写真の石にくっきり浮かんだ「石」という字、書いたんじゃないのー?と思えるほどなのですが、広い中国ならこんな石もあるのかな?
このほか、中国では有名な「雨花石うかせき」という美しい名前のメノウがあるのですが、
色彩のカラフルさ・美しさから、古来たいへん愛好されたようで、『奇石』の本でも大きくページがさかれていました。*2
上の雨花石は、浮かぶ模様に風景を見、下の雨花石には「造化に遺巧なく丹青すべて真を失う」という名前がついているので、石に天地の真理を見ているようです。
さて、私も雨花石を持っているので写真と見比べたのですが、どうも雨花石にはものすごく多種多様な色柄が存在するらしい、ということに内心驚いています。
ということで、『奇石』の中でとくに目にとまったものをみてきましたが、広い中国大陸には未知なるものがまだまだあり、これらはほんの一端なのだろうと感じています。
②花石綱の石
さて悪名高い「花石綱」についてですが、
集めた石っていったいどんな石?と興味を持っていました。
花石綱は、文人皇帝・徽宗きそう(北宋・1082-1135)が都に山を造り*3、そこに珍しい石や草花樹木を集めたというもので、
強引に買い上げたり・強奪したり、運ぶ途中に民家や橋をぶっ壊したり、労働力として使役したりで、民衆の怒りを買ったという出来事です。
本の中で、この山(艮嶽こんがく)に多く集められたのが「太湖石たいこせき」であったということも分かりました。*4
下の写真の右上が花石綱で運んだ太湖石で、驚いたことに「瑞雲峰」という立派な名前がついています。*5
wikiにも運ばれた石の写真が載せられていました。
しっかし、なんかぐにゃぐにゃした複雑怪奇な石です!
この「太湖石」の何が良かったのかというと、このみための複雑さなわけですが、
このぐにゃぐにゃの理屈は簡単で、石自体は青白い石灰岩。水に溶けやすい石灰岩が、水に浸食されて穴が開いてるわけです(秋吉台のカルストと同じ)。
この「石に穴が開いて、向こうが見える」というのが(中国の)よい石のポイントで、さらに「まるで雲のようにみえる」というのも同じく高評価のポイント。
というのは、中国の宗教である道教では「気」というものを大事にしますが、
その気の見えるかたちが「雲」で、霊山に発生する雲、仙人が乗る雲、瑞雲などという雲の持つおめでたいイメージ(開運・吉祥など)をこの石にみているのです。
さきほどの「瑞雲峰」のように雲に見立てられた太湖石は多く、「雲の字がはいった石」を今でも多く確認することができます。*6
最後に
ということで、「中国って国土も広いし、とんでもない石があるんじゃないの?」という興味から、探してみたわけですが、結果としてその一端を知ることができました。
今回、中国で有名な2つの石「雨花石」「太湖石」について少し詳しく探せたのも良かった(なにしろネットで中国の石で調べると、墓石ばっかりでてくる!)。
というわけで、(まだまだ面白いものがありそうだコレ)と思いながら、以上、『中国の奇石・怪石・珍しい石とはどんな石なのか?』でした!ではまた!
【謎】お市の方が「戦国1の美女」っていう根拠は何なんだろう?(織田信長の妹)
信長の妹・お市の方といえば、「戦国1の美女」と言われますが、当たり前のようにこういわれることにすごく違和感を感じていました。
「それって、いったい根拠ってあるの?」ということで、お市の方が戦国1の美女と称されるようになった根拠・出典を探しました。
①お市の方についての2つの記述(『祖父物語』『溪心院文』)
お市の方は、1547年(天文16)の生まれといわれ*1、兄・信長とは13歳差。
父は織田信秀、母は土田どだ御前とされ、信長と同腹とされます*2
さて早速ですが、「戦国1の美女」を決定づけた1つの記述をみていきます。
「太閤ト柴田修理ト取合ハ其比威勢アラソイトモ云
又信長公ノ御妹オ市御料人ノイハレナリトモ申ナリ
淀殿ノ御母儀ナリ 近江ノ國淺井カ妻ナリケル
淺井ニハナレサセ玉ヒテ御袋ト一所ニオハシケルカ
天下一ノ美人ノキコヘアリケレハ 太閤様望ヲカケラレシニ‥」
出典引用:『祖父物語』
ああーこれ、まさしく「天下一の美人」と書いてあります!
しかし、これが書かれた『祖父物語』が元来どこからきたものなのか、実ははっきりしませんでした。
ネットでは「俗書」とか「質の低い編纂物」とあり、資料的には全然ダメで、詳細が分からないのはそのせいのようです。*3
さて、もう1つのお市の方の容貌を記した記述ですが、
こちらは『溪心院文けいしんいんのふみ』というもので、これも引用してみます。
内容は1583年、(賤ケ岳で敗戦した)柴田勝家がお市ともに北庄城に籠城をし、お市の3人の娘(茶々・初・江)を城から脱出させるくだり、
「(お市は)ことのほか御うつくしく、御とし頃より御若に、御二十二、三にもみえさせられ候とのこと。」
引用出典:『溪心院文』(宮本義己『誰も知らなかった江』マイコミ新書2010)
なんと!実年齢36歳のところ、14-13歳は若く見えたというのです!(それはすごい)。
この『溪心院文』を書いたのは、お市の娘・初(1570-1633)に養育された川崎正利の孫といい、祖父に聞いた話をまとめたわけですが、
初ー正利ー孫と伝えられた又聞きの内容が、はたしてどの程度の真実を伝えているのか?
ちなみに、初が母のお市を最後に見たのは13歳の時で、記憶の向こうの母が「若く美しかった」というただその点だけをもはや信じるしかありません。
◯『溪心院文』も資料として重要視されてこなかったといい(信憑性が低い?)、今回まとめて読めるものも見つからず、『溪心院文』を引用している『誰も知らなかった江』(宮本義己著・マイコミ新書)を参考にさせて頂きました。
③お市の方の肖像画
さて、もう1つお市の美貌を伝えるものとして有名なのが下の肖像画。
こちらは、市の娘・茶々が母の菩提を弔う為に死後、描かせたものといわれています。
こうした肖像画は、死後、当人を知らない画家によって描かれることも多く、女性は類型的な美人の肖像画におさまりがちで、男性肖像画に比較すると没個性的な傾向があります。*4
また、長生きすると老齢の姿・尼の姿で描かれてしまうので、若くして亡くなったのが幸いし、お市の方のイメージは美しいままです。
この肖像が類型的な美人画としても、古風な姫スタイル・端正な容貌、赤をはじめとする美しい着色・緻密な描写、そして信長の妹というネームバリュー、
この1枚の肖像画が「戦国1の美女」に絶大な貢献したのは間違いないことでしょう。
③近親者
お市の方の実家・織田家は、「美男美女が多かった」「美形の血筋」などと、ふわっといわれますが、実際、具体的な記述はあるのでしょうか?
【織田秀孝】
秀孝は、母は土田御前で信長の同腹の弟といわれますが、15‐16歳で亡くなったことが『信長公記』に記され、公記の中でその美貌はベタ褒めされています。
「御歳の齢十五・六にして、御膚はだは白粉のごとく、たんくわのくちびる(丹花の唇)柔和のすがた、容顔美麗人にすぐれて、いつくしき(美しき)共中々たとへにも及び難き御方様なり。」
『信長公記』の中で、ここだけ容姿をぶっちぎりにほめちぎっていて、作者は季孝ファンだったのでは?と思うほどなのですが。
お市の方の姉妹【お犬の方】
お犬の方(?-1582)もとても美人であったといわれ、死後、描かれた下の肖像画の賛には、たいへんな美辞麗句が書き連ねられています。
こちらも楊貴妃観音の現身うつしみに例えられたりの、すごいベタ褒めをされていますが、お市の方が亡くなる前年、若くして亡くなっています。*5
しかし、お犬の方の別名の「四方様」が、四方を照らす美しさからきているというのは、どこに書かれているんだろう?
具体的な記述はこの2人くらいで(まだあるかもだけど)、
この他にも信長の叔母・おつやの方が美人だったとか、信長も若い頃は美形だったとかあるのですが、あーそれだっていったいどこに根拠があるんだろう?(見つけられません!)
最後に
ということで、「戦国1の美女」の根拠をみてきました。
「天下一の美人」と言い切った『祖父物語』の記述。伝来した美しい肖像画「浅井長政夫人像」のイメージと根拠となるものは確かにありました。
そしてここに、織田信長兄妹はイケメンであって欲しい・美しくあって欲しい、という世の中の人気がさらに後押しをしている気がします。
今回、2つの文献を探すことができて個人的にはたいへん満足でした。
結論としては、「戦国1かどうかは分からないが、お市の方は子供を3人を産んでなお、若々しくみえる健康的な女性だった」ということで終えたいと思います。
というわけで、以上、『お市の方が「戦国1の美女」っていう根拠は何なんだろう?』でした!ではまた!
巨大な合成ルビーを買ってみた。【61カラットのピジョンブラッドとは】
先日、唐突に合成ルビーってどんな感じなんだろう?という疑問を持ちました。
人工ダイヤのキュービックジルコニアはもっと身近な感じですが、合成ルビーって見たこともないかも!
というわけで、大きな合成ルビーを試しに1個買ってみました。
①ヤフオクで買える「合成ルビー」
ちなみに、ヤフオクで「合成ルビー」で探すと数百円のものからあり、ちゃんと合成ルビーと明記されています。
合成ルビーはブラックライトで強く光る性質から、ライトをあてた写真も載せられており、これが天然ルビーとの簡単な区別法ということも分かりました。*1
合成ならではの低価格なので、以前欲しかった「ピジョンブラッド」という鳩の血ような深紅のカラーを、
そして、どうせ買うなら、インドのマハラジャがつけてるようなデッカいのを!ということで、61カラット(値段は5000円ほど)という、もはやよく分からないサイズを買ってみることにします。
②実際の61カラット
さて、ものは郵パケットでスルスル~と送られてきました。
さっそく開封して巨大ルビーを眺めてみます。
うーん、でかい!すごい大きいなぁ!
こんな大きな天然物を持つことは一生ないだろうし、なんかもうお腹いっぱい、満足した気持ちに!
私が死んだ後、これを見つけた人はあまりの大きさに「オモチャかな?」と思うんだろうなぁ、きっと。
③カラットを測り、昔買ったピジョンブラットと比べてみる
さて、ふだん使わない宝石の質量を表す単位・カラットですが、1カラット=0.2gで、
これをキッチンスケールで測ってみると、
ぴったりと合いました!(おぉ)
そして、手持ちのピジョンブラッドと言っても極小粒ですが、比べてみます。
ちょっと指輪の石が小さすぎてよくわからないけど、*2
指輪のルビーの方は少々ピンク色で(コレジャナイ。もっと濃いのが欲しい)と思っていたのもあり、
やっとイメージ通りの濃いピジョンブラッドを手に入れた!という強い満足感を得ることができました。
自在に色の調整ができて、好みの石を作れるのは合成宝石のほんとうにいいところ。
ちなみに合成ルビーの組成は天然のものと全く同じで、粉末の酸化アルミ・酸化クロムを高温で溶かし、再結晶させるベルヌーイ法という技法が有名で、
酸化クロムを酸化鉄に変えると今度は青いサファイアを合成することができ、それはまるで料理のレシピのようで面白いです。
最後に
というわけで、合成ルビーを買ってみました。
昔、持っていたキュービックジルコニアは本物よりキラキラと綺麗で、私の中の人工ダイヤのイメージは決して悪くありません。
じゃあ、合成ルビーはどうだろう?ということで買ってみたわけですが、
石は綺麗だし、カットも上手、ニセモノぽさもなく、けっこう完成度高いのでは?と思っています。
本人が納得して、普段使いにつける分には何の問題もないな~と。
調べる際に見つけた、合成ルビーを電子レンジで作るyoutubeの動画、
宮沢賢治が大正時代、人造宝石の製造・販売を考えていたエピソードなど(実現してたら面白かったのに!)、合成宝石を造る過程も面白かったな~と思いながら、
以上、『巨大な合成ルビーを買ってみた。』でした!ではまた!
【謎】牡丹石という石が綺麗で驚いた。まるで薔薇だ、これ。(新潟県産・群馬県産)
牡丹石(新潟県)というあまり聞いたことのない石があります。
ピンク・紫色のお花のような模様が黒っぽい地に浮かぶもので、その見ためは牡丹というか薔薇。
ほんとにまるでバラが浮かんでいるようにみえるもので、今回はあまり正体が分からないこの石の写真を載せたいと思います。
①牡丹石(新潟産)
上が牡丹石ですが、この写真の模様の中にはまんま薔薇と思える、まるで描いたようなバラもみえます。
正直、この石が届くまで(実は描いてたりして~)とか疑ってたりしていたのですが。
しかし、磨いていない底の部分にも表れる模様を見て納得。ほんとに天然なんだなぁ。
こうして室内で撮ると全体に紫がかかり、暗くくすんでみえますが、太陽光だときれいなピンク色がよく分かります。
新潟産牡丹石には、このほか地が緑いろのものなどあるようですが、みかける石もその情報も多くはありません。
【産地】 新潟県東蒲原郡阿賀町津川町(旧津川町)。阿賀野川沿い。
次に群馬県産の牡丹石を載せたいと思います。
②牡丹石(群馬産)
こちらはスライスした石を研磨して、デザインがよくわかるようにしたもの。
うすい緑地にピンク・紫の花が全面に浮かぶ、まるでお花の包装紙のような1枚。
白い部分はめのう化しており、一面に花の嵐が巻き起こっているような抒情的な雰囲気に驚くものです。
この石の写真を載せられていた369ストーンさんのツイッターを見るまでは、群馬県沼田にも牡丹石があるとはまるで知りませんでした。
しかも、新潟産と似つつも趣きが異なるのが面白いです。
[http://
<断面研磨標本>
— 369stone (ミロクストーン)3/11〜13横浜ミネラルマルシェ【国産弥勒】 (@369stone) October 4, 2020
牡丹石/群馬
流紋岩球顆の小さいのが沢山集まって、間に泥岩でくっついてる感じの石
大きい粒だと瑪瑙化してます
写真は表裏で裏は未研磨
模様がとても素敵💕
もっと切りたいのですが
国産の原石は中々流通して無いんですよね
次のミネラルマルシェで探す事にしよう! pic.twitter.com/DwjPa04pJI
:title]
最後に
ということで、新潟・群馬の牡丹石を見てみました。
牡丹石で検索をすると、福島県産や中国産(以前は神奈川産もあった?)の黒い御影石や北海道産(牡丹の木が化石化したもの?)というものや、
また石がギザギザと風化して牡丹の花のような見ためになったものまで出てきて、色々な石が牡丹石と呼ばれていることにとまどいます。
そうした中から、新潟産牡丹石の詳しい情報を探しているのですがなかなか分からなくて、また詳しく分かったら、その時はブログにあげたいなと思いつつ、
以上、『牡丹石という石が綺麗で驚いた。』でした!ではまた!
鎌倉街道の峠道がまるで鎌倉時代で驚いた!【二村山展望台】(愛知県豊明市)
先日、名古屋近辺の鎌倉街道を歩きにいってきました。
鎌倉街道は、鎌倉時代~1600年頃を中心に歩かれた街道ですが、この街道を歩ける所(推定)もあり、今回とりあげる二村山ふたむらやまは、そこだけがまるで鎌倉時代にタイムスリップしたような不思議な場所となっています。
[http://:title]
①藤田医科大学病院から二村山へ
この二村山は、11Cの『更科日記』にその記述がみえ、古来名高い歌枕の地として親しまれたきたそうですが、現在ではあんまりピンときません。*1
豊明とよあけ市にそんなところあるの?というイメージです。
名鉄前後ぜんご駅で下車し、北に数km歩くと藤田医科大学病院の白い建物群がみえてきます。
めざす鎌倉街道は、この病院の中を通っていたといいます。
車の往来の激しい病院内(週末なのに)を抜け、真ん中にある濁沼という沼をめざします。
というのは、想定・鎌倉街道はこの沼の底を通っていたという話。水が溜まったのはその後なのだとか。*2
なんだか交通ラッシュがひどいので(ワクチン接種会場のせいか?)、沼は数秒見るだけにして東側へと抜けます。
病院から山への登り口はよくは分からなかったのですが、下の詳しい地図をみながら、体育館の東辺りに見当をつけ、歩いていきます。
そして、体育館の東へと進むとたしかに雑木林の中へと続く細い道を発見!
案内板もないので、これかな?と思いながら、進みます。
中に入って少し進むと、途中の看板には‘二村山‘とあり、一安心。入り口の付近には植物の植えられた庭も広がっています。
こんなところに突如として山の自然が残ることに感動しつつ、これは隣の医科大のおかげだな~と思いながら、続く坂道をちょこっとあがると、
なんと、もう峠につきました!(はやっ!)
峠に建つ説明板を読むと、鎌倉以前よりこの道は歩かれ、源頼朝、北条泰時、飛鳥井雅経、西行法師などが歌や紀行にこの歌枕の地を記したということが書かれています。
しかし、鎌倉時代の旅人が突然現れてもおかしくない雰囲気を残しているところがすごい!(よく残ったなぁー)
傍らには源頼朝の歌碑もあり、源頼朝も歌を詠むんだなーと思ったり。
さて、この峠には他にも古いお地蔵様があるというので、この歌碑の奥にあるお堂をお参りします。
この左側のお地蔵様(身代わり地蔵尊)の背中には、大同2年(807年)の刻銘があるといい、とても古風な、すりへった姿をしています。
また頭のバランスが何となく悪いのは、18世紀の落雷でお堂が燃えた際、頭部が落ちてしまったのだとか。*3
大事にされているのがよく分かるお地蔵様をお参りした後、このお堂から右側の方へ行ってみます。
すると、知らなければ、まず見落としてしまいそうな展望台へと続く道を発見。
②二村山展望台
途中、句碑や歌碑が並ぶ道を上がっていくと、ほどなくして二村山の山頂(標高71.8m)につきます。
ここもきれいに整備されていて、今度は「切られ地蔵尊」という不思議なお地蔵様に目がいきます。
(何が’切られ地蔵’なんだろう?)と思いながらその背中の方に回ってみると、その理由がわかりました。
体が割れて上下まっぷたつに。まるで何かに切られたかのようですが、先ほどのお堂にあった地蔵と同じく、18Cの落雷による被害なのだとか。
この新旧2体のお地蔵様はもともと峠にあって峠を見守っていたといい、長い間の露天でこのようなすり減ったお姿に。
長きに渡るご守護をねぎらってあげたい気持ちになります。
さて、この切られ地蔵の後ろには展望台が建てられています。
峠で全く得られなかった眺望は果たして得られるのか?期待をこめて登ってみます。
なるほど、360度ビューは本当(なかなかいい感じ)。
昔の旅人はここからの濃尾平野の展けた眺望や御嶽山おんたけさんや伊吹山いぶきやま、西側の三河の山をみて、今までの旅の行程、これからの行程を思い、一息ついたようです。
当時は、ここより低い峠の位置からよく見えたのか、海はきれいに見えたのか、色々な想像が頭をよぎる展望台です。
このほか、二村山の中には散策路や豊明神社などがあり、地元の方の憩いの場所となっています。
最後に
ということで、数百mのほんのわずかな区間ですが「あれっ、鎌倉時代かな?」と一瞬錯覚を起こさせてくれるとても面白い場所でした。
また、有名な「桶狭間の戦い」はこの近くで行われたのですが、その際は両軍ともこの鎌倉街道を途中まで利用しており、
戦闘が行われた「田楽ケ窪」はさきほどの藤田医科大学の敷地であったといいます。*4
そうした鎌倉街道に残る、江戸以前の古い歴史をこれからも訪ねていきたいと思いながら、以上、『鎌倉街道の峠道がまるで鎌倉時代で驚いた!』でした!ではまた!
【参考にした書籍】
鎌倉街道ははっきりしないところも多く、ところどころ跡をたどる感じになるかと思いますが、名古屋ふきんの鎌倉街道を歩いてみたいなと思う方には下記の本がたいへんお薦めです。
半日、土岐川をさかのぼる石探し。まぼろしの土岐石を見つけることはできたのだろうか?(岐阜県土岐市・瑞浪市)
先日、半日がかりで土岐川ときがわを歩き、石を探しに行ってきました。
土岐川で採れる土岐石を拾いたい!というのが昨年からの願望ですが、果たして土岐石ときいしやそのほか面白いものは拾えたのでしょうか?
[http://:title]
①真っ暗で探せないよ!凍ってるよ!
今回は、JR土岐市駅で下車し、隣の瑞浪みずなみ駅をめざします。その距離8kmほど。
しかしこの時期、朝6時過ぎの駅前・川は真っ暗!少しづつ薄明がさしてきたとはいえ、暗すぎてまるで石が見えず、歩いてる人も私以外にはいないという(不審すぎ!)。
仕方なく川の上流方向へ歩きつつ、明るくなるのを待ちます。
しかも川原に降りて気づいたのですが、この時期の朝の川は(場所によっては)凍り、川そばの石は氷がついてまっ白。これじゃぁ何の石か分からないよ!
でも凍てついた石を見ることあの固い石が割れたり、小さくなっていく理由がすごくよく分かりました。
日中、この氷は解けて乾燥し、そして夜また凍ると。これを延々を繰り返せば、石すら割れるなーと。
そして、土岐川にかかる橋がいくつもあるわけですが、橋に出くわす度、その下に降りれるかどうかチェック。
しかし、護岸工事中や全然降りられないところも多く、ガッカリしながらも石を探して川をさかのぼります。
ということで、うつむいてひたすら石を探すこと数時間、やがて瑞浪市に入りました。
と書くとあっという間ですが、この日歩いた距離はトータルで18km。橋の下に降りたり、河原を行ったりきたり、小刻みに歩き距離を稼いでいます。
②集めた石
というわけで、ここまで集めてきた石の中に果たして土岐石はあったのか?ですが、このような感じになりました。
さて、採集したその足で、瑞浪市にある瑞浪市化石博物館を訪ねました。
③鑑定の結果
この瑞浪市化石博物館は、デスモスチルス*1など大型の哺乳類の化石を展示していることで有名で、また太古、この辺りが湖だったことから貝・魚・植物の化石などを多く所蔵する博物館です。
川原の石を見て欲しいと伝えると、「鑑定ですね。先生ー!」と奥から先生を呼んでもらえ、その慣れた様子にホッとしました。
(けっこう化石の持ち込みがあるのかな)
ということで、先生に石の鑑定をしてもらいました。
上の石は斑レイ岩とのこと。そもそも斑レイ岩と閃緑岩の見分けが私には難しく、斑レイ岩と言い切ってもらえ、これがそうなのかーとちょっと感動。
こちらは流紋岩りゅうもんがん。流紋岩は色んな見た目があることに驚かされる石ですが、これは石に流れ(流紋)があり、少しキラキラとして分かりやすいタイプだったようです。
上のもの2つはチャートで、特に上は層ずれした珍しいもの。こんなのを拾えたの初めてで嬉しかった。
鑑定後に拾ったため、正体が分からずいまだに悩む石も。
上は、長石(ピンク色だからカリ長石?)の粒が異様に大きく、土岐川では結構みた石なのですが何になるのかな?
さて最後に、土岐石みたいと思って拾った赤いボコボコ石は「チャート!」と言下に答えられてしまいました(あぁ)。
穴があること。ボコボコとした感じ、水につけた時の色味の綺麗さ。これはもしかして可能性がある?と思ったのですが、だめだったか。
チャートと土岐石は色・見ためがかぶる所があり、紛らわしすぎィ!と思ったり。
④まとめ
◯土岐市ではチャートが多いが、瑞浪に行くと火成岩が多くなり、化石も混じり、石の種類が豊かに。わずか数kmしか離れていないのに拾える石に違いがあることに驚いた。
◯探している珪化木(土岐石)については、瑞浪では採れるものは単純に木の化石の白いタイプのもので、色の付いた錦珪化木は出ないとの話。
◯また、地元の方からは「昔は川で珍しい石(つぼ石など)が拾えたが今は難しくなっている。その辺で水晶の鉱脈を見つけたり、珍しい赤い石が出て東京へ持って行ったこともあった」というお話を聞くことができました。
こうした話を聞くとその石が欲しいなら、川原での探石は効率が悪く、供給源の山で探すべきなんだろうなとは思うのですが、しかしそれはレベルが高すぎる。
最後に
というわけで、残念ながら、土岐石を拾うことはできませんでした。別の日、支流を半日歩いたのですが、同様の結果でした。
というように土岐石を拾うことはとても難しいのですが、一生に1度拾えたらいいかな?くらいの気持ちでこれからも探し続けようと思っています。今回土岐石かも?と思って拾った土岐石モドキは、本物が見つかるまで私の部屋のドアストッパーとなっています。
最後になりましたが、教えて頂いた瑞浪市化石博物館の先生や職員さんに感謝をしつつ、『土岐川をさかのぼる石探し』でした!以上です、ではまた!
豊臣秀頼の首は生きたアサリとともに埋葬をされたのか?(大阪城三の丸の発掘調査)(書籍『秀頼の首』より)
『秀頼の首』という入手の難しい本があります。この本、1980年の大阪城の発掘調査で、豊臣秀頼(1593-1615)の可能性のある頭蓋骨を発見し、その異様な埋葬の状況を記した書物です。
しかし内容を知りたいと思ってもレビューも少なく、どんなことが書かれているのかずっと気になっていました。
今回は、やっと読むことができたこの本の内容について書きたいと思います。
[http://:title]
①本の構成など
豊臣秀頼は1615年の大阪夏の陣で、淀君らとともに大阪城・山里丸で自決をしたと伝えられています。
その遺体は、矢倉に火を放ったことでいずれか判別のつかない焼死体であったといいます。*1
さて、著者の木崎國嘉さんは当時の現場の様子を見聞し、発掘された頭蓋骨を間近で見たお医者さん(教授)です。
第1章「頭蓋骨の発見」ではそうした医師の目からみた’秀頼の首’が語られ、
第2章に詳しい頭蓋骨の鑑定結果と、その後は秀頼の成長と大阪の陣にいたるまでの経緯が第4章まで続き、
最終章・第5章では、大阪城の矢倉で自決した秀頼の首が持ち出されたとしたなら、いったい誰がどうやって?という推察がされています。
②発掘の様子と頭蓋骨の鑑定結果
さて1980年、追手門学院の敷地(中央区追手前1丁目)で発掘調査が行われ、その際、極めて健康状態の良い男性の頭蓋骨が発掘されました。
本から発掘状況を拾うと、
【発掘状況】
◯1m四方の穴が掘られ、埋葬されていた。
◯墓には墓標のような石柱(15cm角・長さ80cm・花崗岩製)が建てられ、目立たない程度の盛り土がされていた(仮埋葬?)
◯穴の底にはアサリやタニシの貝が一面に敷きつめられていた
◯同じ場所から、織部焼の角皿と唐津焼の大皿が出土(副葬品と思われる)
◯側の穴からは埋葬された大きな馬の骨が出土し、その穴底には青草をしきつめたような痕跡があった。
◯首は根本から断ち切られ(介錯時のもの?)、南東の方向を向いて置かれていた。
◯頭蓋骨とともに2体の躯幹部が出土。*2
【頭蓋骨の鑑定結果】
鑑定結果からの一部抜粋。
「眉弓は明瞭」
「項線の発達は不良」(筋肉の発達が弱いと推定される)
「左外耳穴は骨新生物で閉鎖」(後天性と思われる)
「頭蓋骨のみについていえば、かなり若い成人男子であり、頭部は前後に長く、鼻筋が通り、上顎がやや前方に突出している。
ことに左側の外耳孔の骨性の閉鎖(外聴道骨腫)により、生前の左側の聴力は極度に低下していたものと思われる。」 引用:『秀頼の首』63P
またこの鑑定結果とは別に、
◯頭蓋骨の歯は歯並びがよく、すり減っていなかった。
◯親知らずが全て生えそろっていること。上口蓋骨の前後の正中線がはっきり残っていることなどから、年齢は20から25位までの若者。
という記述を拾うことができました。とても興味深い内容だったのですが、この中の特に気になる点をいくつか取り上げたいと思います。
③疑問など
◯なぜ、身の入った生きた貝を底にしきつめて埋葬したのか?
この有り様をイメージすると、たいへん奇妙で不思議な気がするのですが、貝を埋納したのは供養とも清めとも、単に湾が近く入手しやすかったのかそれか何か再生の意味でもあるのか?秀頼の好物説まであり、それはそれで個人的には1番面白い説だったのですが。
こうした埋葬方法が当時あったのかを知らないので、これについてはこれから調べてみたいと考えています。
◯大型の馬の骨は、秀頼の愛馬?
頭蓋骨そばの穴から出た大きな馬の骨は、骨のサイズ・太さ、眼窩が在来馬とは明らかに違う特徴を示していました。
秀吉・秀頼の愛馬の太平楽は、アラビア馬系の体高170cmある黒馬あおであったといわれ、これこそ太平楽ではなかったか?という推測がされています。
◯左耳が難聴だった。
これは衝撃の内容ですが、秀頼が難聴であったことを示す記録はみえず、ただ疱瘡にかかった記録はあるので、あるいはこれが原因ではなかったか?という指摘をしています。
◯なぜこの首が秀頼の首なのか?
当の骨が豊臣時代の地層から出、秀頼が自決した山里丸から近い場所にあったこと。*3
副葬品の織部や唐津の年代も同時期に相当し、またこれら焼き物は当時たいへん高価で普通の人間がまず所有できるものではなかったこと(一緒に埋葬された大型の馬も同様)。
丁寧に葬送をされていること。
そして歯もすりへらず、極めて健康状態の良い20歳過ぎの男性の頭蓋骨であること。
これらをあてはめていくと、秀頼その人ではないか?という推測もうなづけるわけです。
◯包囲された矢倉から首を持ち出すことは可能なのか?
この疑問については、最後に著者の木崎さんは持ち出したのはこの武将ではないか?という推測を立てられています。
徳川方の包囲網をかいくぐることは果たしてできたのか?
夏の陣の際の、大阪城からの脱出の記録『おきく物語』を読むとその意外性に富む描写に驚くこともあり、可能性は0ではないかも、と個人的には思うのですが。
最後に
というわけで、『秀頼の首』の発掘の状況をみてきました。
この本である程度の内容を知ることはできましたが専門書ではないため、もっと詳しい出土状況を知りたい、というもどかしい気持ちになることも度々ありました。
しかし、あまり知られていない内容なので、この本で内容を知ることができたことに同時に感謝を覚えています。興味のある方は是非読んでみて下さい。
ということで、今後は実際の発掘の調査報告書を探したり、『大阪御陣覚書』を読んでみたり、大阪歴史博物館で聞いてみたり、さらに探りたいと考えながら、
以上、『豊臣秀頼の首は生きたハマグリとともに埋葬をされたのか?』でした!ではまた!
そのへんに落ちてるような石のペンダントを買ってみた。①「出雲石(来待石)」凝灰質砂岩 ②「赤玉石」(佐渡)
先日、石のことを調べていてふと、ふつーの石のペンダントの写真に目がとまりました。
ものは凝灰質砂岩、「出雲石」と書かれたグレーな地味石で、「はていったい誰がこんなただの石を身につけるのだろうか?」ととても気になりました。
今回はその石と3大名石の1つといわれる「赤玉石あかだまいし」(佐渡)を同時に取り寄せて載せています。*1
①出雲石(来待石)(凝灰質石灰岩)のペンダント
目にとまった画像はこちら。コンクリみたいな普通の石で、形は長方形角とアーモンド型の2つ。値段は3800円。
こら渋いっ。ほんといったい誰がつけるのかな?です。
このシリーズ、他にも尺谷石しゃくだにいしや十和田石などみためが似た石から選べるのですが、特にふつうの石感が強いこの出雲石とやらを買ってみることにします。
ということで、さっそく送ってもらいました。
うーん、グランドの砂を固めたようなみため!ほんとに石!って感じ。
この出雲石、とれたては青味のある灰色といい、時間がたつと黄色に変化するといい、こういう感じなのか。
もっと研磨・コーティングしたら、もう少しアクセサリー感が出そうなのにそれは不向きなのか、本来の地を楽しむものなのか?謎ぶかい。
ほんとにいったいどんな人が買うのでしょうか?(あぁ~気になる)
石の説明には「出世開運・商売繫盛・縁結び」とあり、そうした効果を信じる人もいるのでしょう。
試しに尺谷石(デイサイト軽石火山礫凝灰岩・福井産)を置いて比べてみます。尺谷石は青みが特徴の石でちょっと似てる気がしたのですが、似てるようでやはり違いがあります。
さて、書かれていた「出雲石」で検索をすると出雲めのうばかりが出てきて(あれっ?)と思うのですが、この砂岩の名前はおそらく「来待石きまちいし」。*2
来待石は松江城の築城や現在は’出雲石灯ろう’などに使用される石で、下記の「来待ストーン」という施設のサイトにはこの石のことが詳しく紹介されています。
興味のある方は覗いてみて下さいな。
②赤玉石
もう1個取り寄せたのが「赤玉石」ですが、こちらは人目を引くハッとするような赤い石で、昭和50年代以降産出量がほとんどない・採掘が禁止されているなど、高値で取引されるのをみかけるものです。
しかし、そんな稀少な石が数百円で買えるものなのか?
もう本物じゃなくても見てみたい!ということで、同じお店にあった商品を送ってもらいました。
実物はサイトの写真そのままの、まるでレバーのようにツヤツヤと輝くきれいなものでした。
あまりにつるピカで、ほんとに佐渡の赤玉石?とは思うけど。
赤玉石の赤には、朱肉のような赤から褐色の赤まで色に違いがあり、掘る場所が1m違っても色味が違うといいます。
さて、この不思議な赤色の正体は何かというと鉄分で、赤玉石は酸化鉄を多量に含む石英(レッドジャスパー)ということになります。たしかに石を持った感じはまんま水晶でした。
石に入った白い筋も石英(水晶)で入り方もかっこいいなぁと思います。
佐渡ではこの赤玉石を魔除けに玄関や床の間に飾るといい、そうしたお宅をぜひ見てみたいし、
赤玉石の現在の状況(採取量・採取地・流通量など)を佐渡に行って確かめたい!という結果、すごいやる気が湧いてきたパワーストーンとなりました。
最後に
ということで、気になっていた2種類の石を取り寄せてみました。
来待石のペンダントはこれ以上ないくらいの「石!」で、アクセサリーの概念を越えてきて面白かった。もちろんつけてます!
(もう少しツヤがあるといいな~というのはあるけども)
赤玉石の方はとても綺麗で、さらなる興味とヤル気がわいてきました。
石は買いだすときりがなく、まさに修羅の道。上手につきあわなくては、と思いながら、以上、『そのへんに落ちてるような石のペンダントを買ってみた』でした!ではまた!
汚川で川砂利を拾ってみた。矢田川ではどんな石が拾えるのだろうか?(名古屋市東区)
どこでも都市部を流れる川は汚れているかと思いますが、今回取り上げる地元・名古屋の川だってもちろんそう。市内に入る前にいずれも汚れており、名古屋港へは相当な汚水となってそそいでます。
そんな中、先日、電車に乗っていると矢田やだ川沿いにに砂利石が広がっていることに気がつきました。*1
(市内の川石!どんな石があるのだろう?すごい汚なそう!)と、川原の石を拾い集めている私はとても気になりました。
さて、名古屋市内の川原でどんな石が拾えたのでしょうか?
[http://:title]
①矢田川橋下で採集する(東区矢田)
ちょっとわかりづらいですが、橋の下によくみると白い砂利の河原があります。まさに車窓からみたのはこの風景!怖いものみたさもあってテンションが上がります。
(事前にストリートビューで確認すると橋の横にテントが写っており、先住の人がいるのだろうか?と思ったりでしたが人は居らずでした。)
早速、河川敷から川原の方へ向かいます。
橋脚のところに石がたまっていて、願ったかなったりの光景なのですがドブ臭い!
下水臭が気になって(これは長居はできないな。10分でやろう)という短期決戦の気持ちに。水もミドリ色というかドブ色というかひょっとしたら体に害があるレベルかも(魚はいるそうな)。
素手ではさすがにためらわれるので、持参してきたビニ手で石を探していきます。途中、「何やってんだぁ?あれ」という視線も感じますが、(燕雀えんじゃく安くんぞ)の気持ちでシレ~っと進めます(別に大志はないけど)。
結果、意外とチャート*2ばっかりで、しかも日焼けか川質なのかどれも色抜けしています。
あまりにチャートばかりだったで拾うのやめようかな?と思ったのですが、今回は「これ何だろう?」という判別がつかない石を拾ってみました。
最近こういう何の変哲もない、駐車場の砂利石みたいな石が気になっていたので拾ってきました。チャートばかりでこうしたただの石も少なめだった。
何でしょこれ。園芸用の何かみたいだし、砂岩のようでもあるし。穴が開いて軽いから軽石みたいと思い、水に入れてみたけど浮かばずでした。
この軽いキラキラ地味石も残念ながら今の私の知識ではよく分かりません。
②矢田川の川原と川石のまとめ
◯チャートのほかガラス片・陶器片なども多めで、雑多なものが落ちている川原。上流とは違い、石やゴミがどこから来たのかを考えると興味深い。
◯石はだいぶ摩耗、色抜けしていた。
◯橋の下っていうのは溜まりやすい場所なんだな(砂利・ゴミその他)ということが今回すごく体感できた。
◯上流部(例えば「海上かいしょ川」)との水の綺麗さは雲泥の差で、10何㎞くらいしか離れてないのにあっという間にドブ川になることにも驚いた。
◯チャートが多いのは庄内川かと思いきや矢田川も?ということで、今後さらに矢田川産の石について調べたい。
最後に
ということで、名古屋市内の川で石拾いなんかできるのか?というのを試してきました。想像通り、市内の川の汚れを体感することができました!
また、冒頭で「市内の川は全て汚れている」と言い切ってしまいしたが、次回はまだキレイかもしれない守山区の庄内川へ行き、さらに調べたいと思っています。
また面白い場所で面白い石を拾えたら、記事にあげたいなと思いつつ、以上、『汚川で川砂利を拾ってみた。』でした!ではまた!