織田信長(20)と斎藤道三(59)が対面するシーンで有名な『聖徳寺しょうとくじ会見』ですが、その後2人が「八幡神社(岐阜県羽島郡笠松町田代)まで帰路をともにし、別れの儀式をして別れた」という記述を見つけました。あの『聖徳寺会見』には続きがあったのでしょうか?
[http://:title]
① 『聖徳寺』での対面
「うつけ」の噂を聞いた道三が対面場所の『聖徳寺』で信長を待ち受けていると、武装させた供の者を連れ、うって変わったシュッとした身なりで信長が現れた、というエピソード。とっても有名です。
(『聖徳寺』はその後移転をし、寺の跡は『聖徳寺跡』(一宮市富田とみだ)となっています。)
②『八幡神社』まで同道し、「別れの儀式」をした
この記述は、「笠松町歴史未来館」のリーフレットで見つけました。
⑦『道三・信長両将別れの地』(白髭神社)
「両将は帰路を共にし、田代の八幡神社(白髭神社合祀)で別れの儀式をしました。その後、道三は稲葉山(金華山)の居城に、信長は那古野(名古屋市)の居城に引き上げました。
これは驚きです。あの話には続きがあったのでしょうか?「別れの儀式」ってどういうものなのでしょう?
『聖徳寺』から『八幡神社』(現「白髭神社」)までは約8kmの距離です。『八幡神社』があるのは美濃国ですから*1、信長からしたら8km送って8km戻ってとかなり大変では?と思えます。
[http://:title]
この記述を見て、『聖徳寺跡』から『白髭神社』まで歩いて確かめてみようと考えました。
ルートですが、ちょうどここには旧道の「美濃路みのじ」が途中まで通っています。
これ以上古い旧道は思いつかないし‥、ルート(名古屋ー清州ー稲葉ー萩原ー起)的にもぴったりなので、今回は「萩原はぎわら」からはじめ、『聖徳寺跡』が近くにある「起おこし」を通り、木曽川を渡り、対岸・笠松町にある『白髭神社』を目指すことにしました。
出典:歴史街道「美濃路を歩く」(一宮市尾西歴史民俗資料館)
今回は「一宮市尾西びさい歴史民俗資料館」さんの『美濃路マップ』で歩きます。分かりやすく歩きやすいうえ、防水加工がしてあり、クタタクタにならない優れものでした。
(また、web上では「network2010」のサイトが便利です。名古屋近郊の旧街道を歩けるようにグーグルマップに落とし込んであるので、スマホで確認しながら歩くことができます。)
③「萩原宿」から『聖徳寺跡』
「萩原宿」から「起宿」までは約4kmの道のりです。
尾張には「中島なかしま」姓の方がみえますが、この辺が尾張の「中島さんの発祥の地」らしく、立派な「中島さん」のお家(庄屋さん)があったり‥、そんなことも面白く感じます。そして、あっという間に『聖徳寺跡』に着きました。
信長が会見に出向いた際は、寺内町で700軒ほどの民家が並んでいたといいますが、今は往時をしのぶ感じではないかも‥。
この『聖徳寺跡』から「起宿」へはもうすぐそこです。「起宿」は木曽川の渡船場として賑わった宿場です。
「起」にある『一宮市歴史民俗資料館』では、脇本陣「林家」の住宅を公開し、『美濃路』と『起宿』についての展示などをしています。
こちらの施設、『美濃路』について専門なので、疑問を聞いてみました。
【疑問①】
『信長が「聖徳寺」に向かったルートは美濃路だったの?』ですが、
「当時は『美濃路』はない」*2ということで「歩いたルートは分からない」とのことでした。
全く道が皆無ということはないのではないか?と思い、「『美濃路』の原形のような道は無かったのか」聞いてみました。
「道はあったかもしれないが、はっきりとはわからない。秀吉時代になるとやっと道がはっきりしてくる」
「当時は一宮側の道(もっと東)がメインルート」と教えて頂きました。
そしてもう1つ、
【疑問②】
『「八幡神社」まで2人が同道して別れたという記述がありますが、どうなんでしょうか?』ですが、
「遠すぎるのではないか」「渡船は狙われやすく、リスクがある。川を越えてまで送らないのではないか?」と親切に示唆して頂きました。
(丁寧に教えて頂き、ありがとうございました!)
「信長時代に美濃路ルートはない」と言われると、『もうどこを歩いたらいいんだ?』なのですが、分からないものはしょうがないので、ここから『白髭神社』まで、とりあえず「美濃路」を歩くことにします(途中からは適当に歩くことに)。
「人柱観音」は、慶長(1596-1615)年間の木曽川築堤の難工事の際に自ら志願して川に飛び込んだ「与三」という人を祀っています。
木曽川と「道三」の居城が見えます(お城までは17kmほど)。
結論として、さすがに送ったにしては遠い。遠すぎるのではないか?と思いました。
信長の居城のある「那古野」から『聖徳寺』まで約24km、往復で48km。さらに送り分16kmを足すと64km。供を連れ、川も渡らなければなりません。ムリムリ、ムリでしょう。
(今度機会をみつけて、笠松町で「リーフレット」の記述について聞いてみようと思います。何か出典があるのでしょうか?)
④『信長公記』の記述
〇 信長は「木曽川」「飛騨川」という大河を船で渡って、『聖徳寺』へ出向いた。
〇 道三が帰るのを信長は20町ほど(2km位?)見送った。
とあります。
木曽川が現在のような流れになったのは、1608年の木曽川築堤工事の後なのだそうです(「人柱与三」の話はこの時の話)。
戦国時代には、今の「木曽川」の方は徒歩で渡ることが可能だったと考えられているという記述*3もあり、昔と現在で「木曽川」「日光川」などの川の流れは大きく異なるようです。
また「飛騨川」がどの川なのか、現段階では分かりませんでした。
最後に
残念ながら、「信長の歩いたルートはどうもはっきりとしない」ということが分かりました(「分からない」ということが「分かった」という冗談みたいなオチなのですが‥)。
「白髭神社まで送った」に関しては、これは遠すぎてムリだろうと歩いてみて感じました。
「別れの儀式」が何なのかこれもまだ分りませんが、また次回、笠松町でも聞いてみようと考えています。少し歩いたくらいで疑問が全部解決するはずありませんが、一歩前進とし、次回につなげたいと思います。
‥ということで、「斎藤道三と織田信長の会見場所【聖徳寺】【信長たちが歩いた『ルート』を探したい】」でした!以上です、ではまた!