物欲子(ぶつよくこ)のブログ

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(おもに)物欲ぶつよくの記

斎藤道三と織田信長の対面場所「聖徳寺」(信長たちが歩いた「ルート」を探したい)(愛知県一宮市富田)

織田信長(20)斎藤道三(59)が対面するシーンで有名な「聖徳寺しょうとくじ会見」ですが、その後2人が「八幡神社岐阜県羽島郡笠松町田代)まで帰路をともにし別れの儀式をして別れた」という記述を見つけました。

あの聖徳寺会見には続きがあったのでしょうか?

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聖徳寺での対面

 

1553年(天文22)、うつけの噂を聞いた道三が対面場所の聖徳寺で待っていると、武装させた供の者を連れ、うって変わったシュッとした身なりで信長が現れたというあのエピソード、とても有名です。

聖徳寺はその後移転をし、現在は聖徳寺跡一宮市富田とみだ)となっています。

 

八幡神社まで同道し、別れの儀式をした

 

この記述は、笠松町歴史未来館リーフレットで見つけました。

⑦『道三・信長両将別れの地』(白髭神社

「両将は帰路を共にし、田代の八幡神社白髭神社合祀)別れの儀式をしました。その後、道三は稲葉山金華山の居城に、信長は那古野(名古屋市)の居城に引き上げました。

引用:笠松ナビ散策コース⑤『輪中と森蘭丸の里』より

というもの。これは驚きです。あの話には続きがあったのでしょうか?「別れの儀式っていったいどういうものなのでしょう

聖徳寺跡から八幡神社(現・白髭神社までは約8kmの距離です。

八幡神社があった場所は当時尾張領だったとも考えられますがこの辺り、氾濫で後年国境が変化している場所です。それに信長からしたら、8km送って8km戻ってとかなり大変では?と思えます。*1

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さて、この記述を見て、実際に聖徳寺跡から白髭神社まで歩いて確かめてみようと考えました

ルートですが、ちょうどここには旧道美濃路みのじが途中まで通っています。

これ以上古い旧道は思いつかないし、ルート(名古屋ー清州ー稲葉ー萩原ー起)的にもぴったりなので、今回は萩原はぎわらからはじめ、聖徳寺跡が近くにある起おこしを通り、木曽川を渡り、対岸笠松町にある白髭神社を目指すことにしました。

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引用:「美濃路を歩く」(一宮市尾西歴史民俗資料館)

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歴史街道美濃路を歩く」(一宮市尾西歴史民俗資料館)200円

今回は一宮市尾西びさい歴史民俗資料館さんの「美濃路マップ」で歩きます。分かりやすく歩きやすいうえ、防水加工がしてあり、クタタクタにならない優れもの。また、web上ではnetwork2010のサイトが便利。名古屋近郊の旧街道を歩けるようにグーグルマップに落とし込んであるので、スマホで確認しながら歩くことができます。

 

③萩原宿から聖徳寺跡へ

 

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萩原宿の町並み 昔はもっと繁華であったのだろうか

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数軒入った一続きの長屋も今は珍しくなった

萩原宿から起宿までは約4kmの道のりです。

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「天神の渡し跡」 日光川の渡船場の跡

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冨田一里塚の大きな木

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中島家発祥の碑

尾張には「中島なかしま」姓の方がみえますが、この辺が尾張の「中島さんの発祥の地」らしく、立派な中島さんのお家(庄屋さん)があったりで興味深くみつつ、

そしてあっという間に聖徳寺跡にたどり着きました。

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聖徳寺跡前

信長が会見に出向いた際は、寺内町で700軒ほどの民家が並んでいたといいますが、今は往時をしのぶ感はなく、とても静かな場所となっています。

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聖徳寺跡と書かれた石碑のみが残る

さて、この聖徳寺跡から「起宿おこしじゅく」へはもうすぐそこになります。この起、木曽川の渡船場として賑わった宿場です。

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 脇本陣・林家(一宮市歴史民俗資料館)

起の一宮市歴史民俗資料館では、脇本陣であった林家の住宅を公開し、美濃路起宿についての展示などをしています。

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脇本陣・林家(正面より)

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綺麗なお庭が人気

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昔の起宿の様子

こちらの施設、美濃路について専門なので、疑問を聞いてみました。

疑問①

信長が聖徳寺に向かったルートは美濃路だったのか?」ですが、

当時は美濃路はない*2ということで「歩いたルートは分からない」とのことでした。

全く道が皆無ということはないのではないか?と思い、「美濃路の原形のような道は無かったのか?」を聞いてみたところ、

道はあったかもしれないがはっきりとはわからない秀吉時代になるとやっと道がはっきりしてくる」「当時は一宮いちのみ側の道(もっと東側)がメインルート」ということも教えて頂きました。

そしてもう1つ、

疑問②

八幡神社まで2人が同道して別れたという記述があるがどうなんだろうう?」ですが、

遠すぎるのではないか」「渡船は狙われやすくリスクがある川を越えてまで送らないのではないか?」と親切に示唆して頂きました。

丁寧に教えて頂き、ありがとうございました!

信長時代に美濃路ルートはない」と言われると、「もうどこを歩いたらいいんだ?」なのですが、分からないものはしょうがないので、ここから白髭神社までとりあえず美濃路を歩くことにします(その途中からは適当に歩くことに)

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「人柱観音」(起) 木曽川河畔にある

起しの「人柱観音」は、慶長(1596-1615)年間の木曽川築堤の難工事の際に自ら志願して川に飛び込んだ「与三」という人を祀ったもの。

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起の渡船場の跡

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船場から岐阜城がみえる

木曽川からは、金華山の道三の居城が見えます(城までは17kmほど)

この後、木曽川にかかる橋を渡り、笠松町白髭神社まで歩きました。

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白髭神社

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「道三・信長両将別れの地」の説明板

結論として、さすがに送ったにしては遠い遠すぎるのではないか?と思いました。

信長の居城のある那古野から聖徳寺まで約24km、往復で48km。さらに送り分16kmを足すと64km。供を連れ、川も渡らなければなりません。ムリムリ、ムリでしょう。

今度機会をみつけて、笠松町リーフレットの記述について聞いてみようと思います。何か出典があるのでしょうか?

 

④『信長公記』の記述

 

信長公記』の記述もみておきます。

〇信長は「木曽川」「飛騨川という大河を船で渡って、聖徳寺へ出向いた。

〇道三が帰るのを信長は20町ほど(2km位?)見送った、とあります。

木曽川が現在の流れになったのは1608年の木曽川築堤工事の後のことで(「人柱与三」の話はこの時の話)、戦国時代には今の木曽川は徒歩で渡ることが可能だったと考えられるという記述*3もあり、昔と今で「木曽川」「日光川」などの川の流れは大きく異なるようです。

また飛騨川がどの川なのか現段階では分かりませんでした。

 

最後に

 

残念ながら、信長の歩いたルートはどうもはっきりとしないということが分かりました(分からないということが分かったという冗談みたいなオチなのですが)

白髭神社まで送った」に関しては、これは遠すぎてムリだろうと歩いてみて感じました。

別れの儀式」が何なのかこれもまだ分りませんが、また次回、笠松町でも聞いてみようと考えています。少し歩いたくらいで疑問が全部解決するはずありませんが一歩前進とし、次回につなげたいと思います。

ということで、『信長たちが歩いたルートを探したい』でした!以上です、ではまた!

*1:1586年の木曽川洪水以前は尾州領との記述があるのは『戦国の雄 森一族と居城美濃金山城の軌跡』兼山歴史同好会

*2:美濃路」は、江戸時代初頭整備された。街道の一部は中世の鎌倉街道と重なる。

*3:『資料館の逸品』(一宮市尾西歴史民俗資料館)より