物欲子(ぶつよくこ)のブログ

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【謎】お市の方が「戦国1の美女」っていう根拠は何なんだろう?(織田信長の妹) 

信長の妹・お市の方といえば、「戦国1の美女」と言われますが、当たり前のようにこういわれることにすごく違和感を感じていました。

それっていったい根拠ってあるの?」ということで、お市の方が戦国1の美女と称されるようになった根拠・出典を探しました。

お市の方についての2つの記述(『祖父物語』『溪心院文』)

 

お市の方は、1547年(天文16)の生まれといわれ*1、兄・信長とは13歳差。

父は織田信秀、母は土田どだ御前とされ、信長と同腹とされます*2

さて早速ですが、「戦国1の美女を決定づけた1つの記述をみていきます。

 

「太閤ト柴田修理ト取合ハ其比威勢アラソイトモ云 

信長公ノ御妹オ市御料人イハレナリトモ申ナリ

淀殿ノ御母儀ナリ 近江ノ國淺井カ妻ナリケル 

淺井ニハナレサセ玉ヒテ御袋ト一所ニオハシケルカ

天下一ノ美人ノキコヘアリケレハ 太閤様望ヲカケラレシニ‥」 

出典引用:『祖父物語』

 

ああーこれ、まさしく「天下一の美人」と書いてあります!

しかし、これが書かれた『祖父物語』が元来どこからきたものなのか、実ははっきりしませんでした。

ネットでは「俗書」とか「質の低い編纂物」とあり、資料的には全然ダメで、詳細が分からないのはそのせいのようです。*3

さて、もう1つのお市の方の容貌を記した記述ですが、

こちらは『溪心院文けいしんいんのふみ』というもので、これも引用してみます。

内容は1583年、(賤ケ岳で敗戦した)柴田勝家お市ともに北庄城に籠城をし、お市の3人の娘(茶々・初・江)を城から脱出させるくだり、

お市は)ことのほか御うつくしく御とし頃より御若に御二十二三にもみえさせられ候とのこと。」 

引用出典:『溪心院文』(宮本義己『誰も知らなかった江』マイコミ新書2010)

 

なんと!実年齢36歳のところ、14-13歳は若く見えたというのです(それはすごい)

 

この『溪心院文』を書いたのは、お市の娘・初(1570-1633)に養育された川崎正利の孫といい、祖父に聞いた話をまとめたわけですが、

初ー正利ー孫と伝えられた又聞きの内容が、はたしてどの程度の真実を伝えているのか?

ちなみに、初が母のお市を最後に見たのは13歳の時で、記憶の向こうの母が若く美しかった」というただその点だけをもはや信じるしかありません。

◯『溪心院文』も資料として重要視されてこなかったといい(信憑性が低い?)、今回まとめて読めるものも見つからず、『溪心院文』を引用している『誰も知らなかった江』(宮本義己著・マイコミ新書)を参考にさせて頂きました。

 

お市の方肖像画

 

さて、もう1つお市の美貌を伝えるものとして有名なのが下の肖像画

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浅井長政夫人像」(高野山持明院所蔵)

こちらは、市の娘・茶々が母の菩提を弔う為に死後、描かせたものといわれています。

こうした肖像画は、死後、当人を知らない画家によって描かれることも多く、女性は類型的な美人の肖像画におさまりがちで、男性肖像画に比較すると没個性的な傾向があります。*4

また、長生きすると老齢の姿・尼の姿で描かれてしまうので、若くして亡くなったのが幸いし、お市の方のイメージは美しいままです。

この肖像が類型的な美人画としても、古風な姫スタイル・端正な容貌、赤をはじめとする美しい着色・緻密な描写、そして信長の妹というネームバリュー、

この1枚の肖像画が「戦国1の美女」に絶大な貢献したのは間違いないことでしょう。

 

③近親者

 

お市の方の実家・織田家は、「美男美女が多かった」「美形の血筋」などと、ふわっといわれますが、実際、具体的な記述はあるのでしょうか?

 

織田秀孝

秀孝は、母は土田御前で信長の同腹の弟といわれますが、15‐16歳で亡くなったことが『信長公記』に記され、公記の中でその美貌はベタ褒めされています。

「御歳の齢十五・六にして、御膚はだは白粉のごとく、たんくわのくちびる(丹花の唇)柔和のすがた、容顔美麗人にすぐれて、いつくしき(美しき)共中々たとへにも及び難き御方様なり。」

信長公記』の中で、ここだけ容姿をぶっちぎりにほめちぎっていて、作者は季孝ファンだったのでは?と思うほどなのですが。

 

お市の方の姉妹お犬の方

お犬の方(?-1582)もとても美人であったといわれ、死後、描かれた下の肖像画の賛には、たいへんな美辞麗句が書き連ねられています。

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細川昭元夫人像(京都・龍安寺

こちらも楊貴妃観音の現身うつしみに例えられたりの、すごいベタ褒めをされていますが、お市の方が亡くなる前年、若くして亡くなっています。*5

しかし、お犬の方の別名の「四方様」が、四方を照らす美しさからきているというのは、どこに書かれているんだろう?

具体的な記述はこの2人くらいで(まだあるかもだけど)

この他にも信長の叔母・おつやの方が美人だったとか、信長も若い頃は美形だったとかあるのですが、あーそれだっていったいどこに根拠があるんだろう(見つけられません!)

 

最後に

 

ということで、「戦国1の美女」の根拠をみてきました。

天下一の美人」と言い切った『祖父物語』の記述。伝来した美しい肖像画浅井長政夫人像」のイメージと根拠となるものは確かにありました。

そしてここに、織田信長兄妹はイケメンであって欲しい・美しくあって欲しい、という世の中の人気がさらに後押しをしている気がします。

今回、2つの文献を探すことができて個人的にはたいへん満足でした。

結論としては、「戦国1かどうかは分からないがお市の方は子供を3人を産んでなお、若々しくみえる健康的な女性だった」ということで終えたいと思います。

というわけで、以上、『お市の方戦国1の美女っていう根拠は何なんだろう?』でした!ではまた!

*1:没年から逆算。

*2:同腹でない説もあり。

*3:興味のある方は、明治の出版本を国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。『史籍集覧・第13冊』(明治35年発行)で、コマ番号を169にすると該当箇所を読むことができる。

*4:田沢裕賀『日本の美術384 女性の肖像』より。

*5:賛の内容・文言を知りたい方は「細川昭元夫人像 京都 龍安寺蔵」ででてくるPDFの中で読むことができます。