物欲子(ぶつよくこ)のブログ

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豊臣秀頼の首は生きたアサリとともに埋葬をされたのか?(大阪城三の丸の発掘調査)(書籍『秀頼の首』より)

秀頼の首』という入手の難しい本があります。この本、1980年の大阪城の発掘調査で、豊臣秀頼(1593-1615)の可能性のある頭蓋骨を発見し、その異様な埋葬の状況を記した書物です。

しかし内容を知りたいと思ってもレビューも少なく、どんなことが書かれているのかずっと気になっていました。

今回は、やっと読むことができたこの本の内容について書きたいと思います。

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①本の構成など

 

豊臣秀頼は1615年の大阪夏の陣で、淀君らとともに大阪城・山里丸で自決をしたと伝えられています。

その遺体は、矢倉に火を放ったことでいずれか判別のつかない焼死体であったといいます。*1

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大阪城に建つ石碑  写真引用:wikipedia豊臣秀頼

さて、著者の木崎國嘉さんは当時の現場の様子を見聞し、発掘された頭蓋骨を間近で見たお医者さん(教授)です。

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木崎國嘉著 共同出版所 1982年

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『秀頼の首』2Pより

第1章「頭蓋骨の発見」ではそうした医師の目からみた’秀頼の首’が語られ、

第2章に詳しい頭蓋骨の鑑定結果と、その後は秀頼の成長と大阪の陣にいたるまでの経緯が第4章まで続き、

最終章・第5章では、大阪城の矢倉で自決した秀頼の首が持ち出されたとしたなら、いったい誰がどうやって?という推察がされています。

 

②発掘の様子と頭蓋骨の鑑定結果

 

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『秀頼の首』23Pより

さて1980年、追手門学院の敷地中央区追手前1丁目)で発掘調査が行われ、その際、極めて健康状態の良い男性の頭蓋骨が発掘されました。

本から発掘状況を拾うと、

 

発掘状況

◯1m四方の穴が掘られ、埋葬されていた。

◯墓には墓標のような石柱(15cm角・長さ80cm・花崗岩製)が建てられ、目立たない程度の盛り土がされていた(仮埋葬?)

穴の底にはアサリやタニシの貝が一面に敷きつめられていた

◯同じ場所から、織部焼の角皿と唐津焼の大皿が出土(副葬品と思われる)

◯側の穴からは埋葬された大きな馬の骨が出土し、その穴底には青草をしきつめたような痕跡があった。

◯首は根本から断ち切られ介錯時のもの?)、南東の方向を向いて置かれていた。

◯頭蓋骨とともに2体の躯幹部が出土。*2

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『秀頼の首』25Pより

 

頭蓋骨の鑑定結果

鑑定結果からの一部抜粋。

「眉弓は明瞭」

「項線の発達は不良」(筋肉の発達が弱いと推定される)

左外耳穴は骨新生物で閉鎖」(後天性と思われる)

「頭蓋骨のみについていえば、かなり若い成人男子であり、頭部は前後に長く、鼻筋が通り、上顎がやや前方に突出している。

ことに左側の外耳孔の骨性の閉鎖(外聴道骨腫)により、生前の左側の聴力は極度に低下していたものと思われる。」 引用:『秀頼の首』63P

またこの鑑定結果とは別に、

◯頭蓋骨の歯は歯並びがよく、すり減っていなかった。

◯親知らずが全て生えそろっていること。上口蓋骨の前後の正中線がはっきり残っていることなどから、年齢は20から25位までの若者。

という記述を拾うことができました。とても興味深い内容だったのですが、この中の特に気になる点をいくつか取り上げたいと思います。

 

③疑問など

 

なぜ、身の入った生きた貝を底にしきつめて埋葬したのか

この有り様をイメージすると、たいへん奇妙で不思議な気がするのですが、貝を埋納したのは供養とも清めとも、単に湾が近く入手しやすかったのかそれか何か再生の意味でもあるのか?秀頼の好物説まであり、それはそれで個人的には1番面白い説だったのですが。

こうした埋葬方法が当時あったのかを知らないので、これについてはこれから調べてみたいと考えています。

 

大型の馬の骨は、秀頼の愛馬

頭蓋骨そばの穴から出た大きな馬の骨は、骨のサイズ・太さ、眼窩が在来馬とは明らかに違う特徴を示していました。

秀吉・秀頼の愛馬の太平楽は、アラビア馬系の体高170cmある黒馬あおであったといわれ、これこそ太平楽ではなかったか?という推測がされています。

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馬の骨の出土写真 『秀頼の首』43pより

左耳が難聴だった

これは衝撃の内容ですが、秀頼が難聴であったことを示す記録はみえず、ただ疱瘡にかかった記録はあるので、あるいはこれが原因ではなかったか?という指摘をしています。

 

なぜこの首が秀頼の首なのか

当の骨が豊臣時代の地層から出、秀頼が自決した山里丸から近い場所にあったこと。*3

副葬品の織部唐津の年代も同時期に相当し、またこれら焼き物は当時たいへん高価で普通の人間がまず所有できるものではなかったこと(一緒に埋葬された大型の馬も同様)。

丁寧に葬送をされていること。

そして歯もすりへらず、極めて健康状態の良い20歳過ぎの男性の頭蓋骨であること。

これらをあてはめていくと、秀頼その人ではないか?という推測もうなづけるわけです。

 

包囲された矢倉から首を持ち出すことは可能なのか

この疑問については、最後に著者の木崎さんは持ち出したのはこの武将ではないか?という推測を立てられています。

徳川方の包囲網をかいくぐることは果たしてできたのか?

夏の陣の際の、大阪城からの脱出の記録『おきく物語』を読むとその意外性に富む描写に驚くこともあり、可能性は0ではないかも、と個人的には思うのですが。

 

最後に

 

というわけで、『秀頼の首』の発掘の状況をみてきました。

この本である程度の内容を知ることはできましたが専門書ではないため、もっと詳しい出土状況を知りたい、というもどかしい気持ちになることも度々ありました。

しかし、あまり知られていない内容なので、この本で内容を知ることができたことに同時に感謝を覚えています。興味のある方は是非読んでみて下さい。

ということで、今後は実際の発掘の調査報告書を探したり、『大阪御陣覚書』を読んでみたり、大阪歴史博物館で聞いてみたり、さらに探りたいと考えながら、

以上、『豊臣秀頼の首は生きたハマグリとともに埋葬をされたのか?』でした!ではまた!

*1:『大阪御陣覚書』。大坂の陣についての記録。1677年成立。合戦参加者からの体験談を集めて編まれたという。

*2:この2体は頭とは全く異なる骨質で、1体は若く、もう1体は老齢とみられる男性であった。

*3:墓穴のそばには土坑があり、これは大阪の陣の際の不用品捨てとして使用されていた。