物欲子(ぶつよくこ)のブログ

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「ヘキナン(碧南)?ドコナン?」碧南には何があるのか?かっての「大浜」を観光する

名鉄(めいてつ・名古屋鉄道ヘキナン(碧南)?ドコナンというキャンペーンが、昨年(2019年)やっていたのですが、たしかに愛知県人でも「碧南ってどこ何があるの?」というのはあります。

ということで、碧南にはいったい何があるのか?を確かめるべく、出かけてきました。

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「ヘキナン?ドコナン?」キャンペーン 

昔、「碧南中央」という駅で降りて散策したことはあるが、相当何もなかった記憶。

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名鉄三河線の古い車両がいい感じ

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碧南駅前 やはり何もないのか?と不安になる

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海へ下る土地の傾斜に少しテンションがあがる

大浜(碧南)のみどころ

 

大きな港があった

②家康の「伊賀越え」の後のルート

③お城みたい可愛い警察署(旧大浜警察署

④たくさんのお寺のある「寺町」てらまち

⑤(寺町巡りの)特に「西方寺」さんの御朱印が面白い!

⑥「九重ここのえみりん

と順番にみていきたいと思います(⑥のみ別記事にしています)

 

①大きな港「大浜」

 

現地に行ってやっと分かったのですが、ここはかっては「大浜おおはまと呼ばれた、大きな港のあった場所でした。

中世から問丸といまるとして栄え*1続く江戸時代にも三河の重要な港で、「白子(しらこ・三重)大浜」「伊勢の大湊おおみなと大浜」の航路が通っていました。

伊勢・三重と三河をつなぐ重要な航路がこの場所であったのです。

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位置関係 © OpenStreetMap contributors

風が穏やかな港だそうですが、隣の知多半島が風を防ぐのだろうか。

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今の大浜漁港 奥の橋の向こうが外海

しかし、今の海は、河口側であったことと、埋め立てでかなり遠くになってしまっています。

 

家康の「伊賀越え」の後のルート

 

家康の「伊賀越え」有名ですが*2、「伊賀を越えて帰ったんだ~」程度にしか知りませんでした。

言われてみれば、伊賀を抜けた後、三河までどうしたんでしょうね?

 

調べると、家康一行は「伊賀越え」の後、白子三重県辺りで乗船。

師崎(もろさき・知多半島を通り、大浜に上陸。そこから領地の岡崎へ戻った、ということが分かりました。

なるほど。伊賀から海に出て、海路でここ大浜へ上陸というルートであったことが分かり、やっと全行程が判明しました。

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家康一行の上陸地といわれる場所 (奥は大浜漁港)

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上陸地付近の熊野神社

③お城みたいな可愛い警察署(旧大浜警察署)

 

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おもちゃのような可愛い塔

 「何でしょこれは?」と思ったこのキュートな建物、大浜の旧警察署大正13年改築)でした。

入れるなら、ぜひとも塔に上がって景色を見てみたいところですが、開放しておらず。

海側にあるので、海の見晴らしもきっとよいのでしょう。

この警察署の裏手には当時は、港町らしく「歓楽街」などがありました。

大正時代にはモダンな建物として、目立つし、ちょっとした名所だったのではないかと想像。

 

④たくさんのお寺「寺町」

 

寺町てらまち」の名の通り、大浜にたくさんのお寺があり、どれがどれか違いに迷う位。

碧南にはなぜこんなにたくさんのお寺があるのか?お寺の人に聞いてみたところ、

昔からの大きな港で人が集まり色々な宗派のお寺ができたんだよ」との答えで、なるほど、と納得をしました。

各お寺の趣向をこらした建築・丁寧な造作に、当時の繁栄を今も見ることができます。

2つだけ、お寺を紹介します。

【西方寺】

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奥のお城みたいな櫓やぐらはいったい?です

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西方寺の太鼓楼でした

この太鼓楼たいころうは、1863年の建立で学校の校舎として使用されていたそうです。

称名寺

徳川家ゆかりのお寺。

徳川家の前身・松平家時代からのお寺で、家康の曽祖父(信忠)はこのお寺で亡くなったといいます。

そして家康の幼名・竹千代は、このお寺の連歌会の歌からとられたのだとか。

また、朝鮮出兵の船が秀吉の命により、この辺りで建造されたという話も面白いです。

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徳川家祖廟

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綺麗に整備された墓地

徳川家祖廟は、松平家初代や信忠(家康の曽祖父)、信忠の娘などのお墓群でした。

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いっけん地味だが、よく見るとどのお寺も木彫の造作が素晴らしい

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そして鬼瓦がどのお寺も立派 近くの高浜産か

お寺の造りこみをみると、明治位はけっこう繁栄していたのではないかということが窺えます。

www.ohama-teramachi.jp

 

⑤「西方寺」さんの御朱印

 

正直、今回、1番のお目当てはこれでした。「絶対他力御朱印

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絶対他力」の力強いフレーズ 字も上手でうれしい

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こちらは「現前の境遇に落在」の珍しい文言

この言葉、明治30年代に有名だった宗教哲学者・清沢満之(きよざわまんし・1963-1901)さんの言葉で、西方寺の副住職だった方です。*3

絶対他力の大道」の意味は、あまりよく分からないのですが、「他力(=仏様のお力)をひたすらに信仰する」という意味でしょうか。

現前の境遇に落在らくざい」にいたってはさらに難しく、色んなサイトを見ていたら、頭がクラクラしてしまいました。*4

清沢さんは39歳と若くして亡くなっているので、もう少し長命であったなら、もっと分かりやすく解説してくれたのではないか、と想像したり。

 

さて、今回は⑥は飛ばし、残りの写真をあげて終わりにします。

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大浜陣屋跡 公園になっています

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大浜ぽいお寺のある小路

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「立ち葵」の家紋 (本伝寺)

最後に

 

今回、「碧南」という地名に隠れてしまったかっての「大浜」という場所がたいへん歴史があり、栄えた大港であったことが分かりました。

大浜につけられた「大」の字には深い意味があったのです。

全国各地に「大浜」の地名がみられますが、いずれも歴史のある土地柄かもしれません。

また、「大湊」「大津」「大山」「大町」など、「大」を冠する地名は他にもあることだし、これからはもっと「大」の字を持つ土地に注目してみようというヒントを与えてくれた。

ということで、以上、『ヘキナンドコナンでした!ではまた!

「九重味醂」さんについては、下のブログでふれています。

butuyokuko.hatenablog.com

*1:造船所、ドッグ、倉庫群、旅館が集合する大きな港。

*2:本能寺の変」後、在阪していた家康が身の危険を感じ、本拠地・岡崎に戻った行動。

*3:名古屋市東区の筒井小学校には、清沢満之の説明板があるのですが、同校出身で神童と呼ばれた彼は、東京大学を主席で卒業しています。

*4:「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に、現前の境遇に落在せるものすなわちこれなり。」