「長篠の戦い②」(両軍の距離が近すぎる。兵力差もあるのに戦った理由がよくわからない)
前回ブログ、「長篠の戦い①」の続きです。復元された馬防柵、決戦場跡、激戦地、戦死した山県昌景やまがたまさかげのお墓などを見て歩いています。
1575年5月、織田・徳川連3.8万人、武田軍1.5万人(の勢力の一部)が設楽原で激突しました。*1
(少し見づらいですが)東側に武田軍。
馬場、真田、穴山梅雪あなやまばいせつ、土屋、内藤、小幡、甘利あまり、山県、小山田の名が見えます。
西側が連合軍で、上の方が織田軍(羽柴、水野、佐久間さくま、丹羽、滝川)
下に徳川軍(石川、本多、榊原、大須賀)
織田信長の本陣は、織田軍の後方です。
「馬防柵」と決戦場跡
奥の山が武田軍の陣地ですが、やはり、近いっ、近すぎる!(数百m?)
昔の戦闘って、本当に彼我の距離だなと思うのですが、考えてみれば、暴走族の抗争だって飛び道具もないし、お互いがしゃべれるくらいの距離。それよりはもうちょっと距離とったかんじ?
さて、奥の鉄塔の辺りの高台が、武田勝頼の本陣「才の神」です。
連合軍は、連吾川れんご沿いに2㎞・3重の柵を構築したといいますが、正直、えぇ、ここに3重に柵を?と思う狭さです。
また両軍が対峙した川が思った以上の小川でまたまた驚きます(川幅は2-2.5m位)。
『甲陽軍艦』には、「馬を十騎も並べて駆けられるところではない」とあり、確かに騎馬隊が一斉突撃ができる場所ではなし。今も凸凹感があり、約450年前も今と同じ田んぼや川だったわけで、地形の変わらなさは驚異です。
織田軍と徳川軍の柵がそれぞれ復元してあり、出入口のもうけ方に違いがあるのですが、そうしたことも現地にきて実際見ないと分からないものだなぁと。
連合軍は柵を作り、空堀・土塁を築き、1000~3000丁の火縄銃を用意。というように用意周到に陣地を構築しています。
信長が岐阜を発つ時、兵に柵木1本と縄をもたせたといい、着々と備えていたことが窺えます。*2
当時は木を切り倒したりして整地し、もっと地面が露出していたのかとか、
戦場には陣地を構築するカーン、カーンという設営の音がこだましていたのか?など、想像は尽きません。
上のイラストでみると、設楽原をうずめる人・人・人、すごい人!そして、少し小高いところには大将の陣地があります。
両軍の兵力約5万として、5万というと、下の名古屋ドームのお客さん全員で戦う感じ?
戦闘と武田軍の崩壊
さて、戦闘は早朝から昼過ぎまで、約6-8時間続いたといいます。
武田軍は、隊ごとに主だった者7-8名が馬に乗り、(馬を後にひいた)後続隊が鑓を使って切りこんだとあります。*3
やがて、武田四天王*4の1人で、最左翼にいた山県昌景(やまがたまさかげ・54)の戦死により、山県隊が崩れ、内藤、土屋と討ち死にしていきます。
これは真ん中の「親族衆」(勝頼の従兄弟やおじさんなど)の隊が早期退却したため、左右の隊に攻撃が集中してしまったためともいわれます。*5
武田軍としては、寡勢で大軍と戦うため、左右の軍で包囲するような陣形をとりたかったという話も。
山県昌景のお墓
その山県昌景のお墓が長篠にあります。
「丸山」と大宮前激戦地
丸山まるやまは、織田軍と武田軍がこの場所の奪取をめぐり激突した設楽原指折りの激戦地といいます。(場所は「馬防柵」の北数百m)
最後に
なぜ、大軍の連合軍(しかも陣地構築万全の)に武田軍がしかけたのか?
信州に退却するとみせかけて、退路で迎え撃った方が良かったのにとか、この場所で戦わないという選択肢はなかったのかと思うのですが、よく分かりません。
『甲陽軍艦』では、配下の進言を取り入れたためとの記述も見えます。
慢心だったのか、決着をつけるためにここまで遠征をしてきているので、気持ちがはやったのか。
(甲府から長篠まで、諏訪を経由するルートだと約240kmの長距離。)
結局、謎のままなのですが、450年前の話なのに、地形などが良く残り、当時の状況を想像できる「設楽原の古戦場」はたいへんおすすめのスポットだと思いました。
というわけで、以上!『長篠の戦い②』でした!ではまた!