6月中旬、岐阜県美濃市に行ってきました。美濃市と言えば、郡上八幡の南に位置する川湊と和紙の町のイメージです。そして、和紙や水運で栄えた「うだつのある街並み」で有名です。「長良川鉄道」で行ってきました。
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座席のシートの柄も少しづつ違います。可愛い!
さて、「美濃市駅」で下車して7・8分も歩くと、やがて伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区)に入ります。
①『うだつのある町並み』
「コロッケ」で有名な「喜楽精肉店」さん
(8時からの営業なので、8時台でもコロッケを買うことができました)
ここ『美濃町』は、「金森長近かなもりながちか」(初代 飛騨高山藩主)によって、城下町として整備されました。
長近の居城が小倉山城*1で、その城下が「美濃町」ということになります。
この時、『美濃町』は「目の字型」(東西2本の通りと4つの横町でつないだ通り)に整備をされました(町の始まりを想像しながら歩くと楽しいです)。
「飛騨高山」の城下町を作ったのもこの長近ですが、「飛騨高山」の方は養子に譲っています。
自分はここ上有知こうづち(今の美濃市)に移り、「上有知藩」2万石の初代藩主となりました。
長近は、85歳という長命で亡くなります。
2代目藩主になったのは、長近82歳の時の子供(⁉)ですが、7歳で夭折してしまい、
上有知藩は断絶します(その後は幕末まで「尾張藩領」)。
1772年から酒造業をされている「小坂酒造場」さん。
この「伝建地区」で「最も優美なうだつ」と説明がありました。
(両側に綺麗なカーブのうだつがあがっています。優しい曲線。)
競りあう2つの「うだつ」
左側が「平田家住宅」で、右側が「古川家住宅」です。
(ほぼ同時期ですが、建築年は「古川家」が少し後だそうです)。
両方とも明治時代の「うだつ」で、とても立派で張りがあってかっこいいです。
ここ『美濃町』はすぐ横を流れる長良川の水害をさけるため、少し高い場所に築かれました。その分水利が弱く、防火対策としての『うだつ』が作られはじめた、といいます。
その後は「美濃町」の発展とともに、商家の経済力の誇示として『うだつ』が盛んに上げられるようになったそうです。
「卯建は一生に1度あげれるかどうかというしろもの」という話を聞いたことがあります。当時は、商人としての一生の「甲斐性」の証しだったのでしょうか?(現代ではどうもピンとこないところもありますが‥)
江戸時代まで家屋の建築制限があり、明治に入ってそれもなくなり、以降『うだつ』に乗る瓦は大きく、装飾も華美になっていったそうです。
現在、伝建地区では20数軒が『うだつ』をあげているそうで、確かに『うだつ』だらけでした!
「経済力のある商家ぞろいの町だったんだなぁ」と感心しながら見て回りました。
②『上有知湊こうづちみなと』
幕末の川湊の灯台が残っているのが珍しいです。高さ8m、威風堂々としています。
明治末に電車が開通して船運がすたれるまで、相当な繁華な湊だったのでしょう。
(『うだつ』がそれを証明していると思うのですが、今では想像しづらいです‥)
川湊から、今度は「長近」の小倉山の「城跡」に行ってみることにします。
『うだつの町並み』②へ続きます。