「うだつの町並み①」 戦国武将 「金森長近の城下町と上有知湊」(こうづちみなと)(岐阜県美濃市)
美濃市と言えば、郡上八幡の南に位置する川湊と和紙の町のイメージです。そして、和紙や水運で栄えたうだつのある街並みで有名です。
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①長良川鉄道と名鉄・美濃町線
美濃市駅で下車して、少し歩いたところに名鉄の旧美濃町駅を見ることができます。
勢ぞろいしている列車が微笑ましい。
そして、駅前から7・8分も歩くと、伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区)に入ります。
②うだつのある町並み
8時からの営業なので、8時台でもコロッケを買うことができます。
特徴はジャガ芋と玉ネギに、飛騨牛・豚の旨みがシミシミしているところ。あっというまに食べてしまったのですが、食べやすかった。
旨味があるのでソースも不要なコロッケでした。
③金森長近の城下町「美濃町」
ここ美濃町は、金森長近(かなもりながちか・初代 飛騨高山藩主)によって、城下町として整備をされました。
長近の居城が小倉山城で*1、その城下町が美濃町です。町づくりの際、美濃町は目の字型(東西2本の通りと4つの横町でつないだ通り)に整備をされました。
飛騨高山の城下町を作ったのもこの長近ですが、飛騨高山の方は養子に譲り、自分はここ上有知(こうづち・今の美濃市)に移り、上有知藩2万石の初代藩主となりました。
そして長近は、85歳という長命で亡くなります。
2代目藩主になったのは、長近82歳の時の子供(⁉)ですが、7歳で夭折してしまい、上有知藩は断絶してしまいます(その後、幕末まで尾張藩領)。
という小さな城下町の始まりを想像しながら、散策していきます。
1772年から酒造業をされている小坂酒造場さんで、この伝建地区で「最も優美なうだつ」と説明がありました。
両側に綺麗なカーブのうだつがあがっています。優しい曲線。
左側が平田家住宅で、右側が古川家住宅です。
ほぼ同時期ですが、建築年は古川家が少し後だそうです。
両方とも明治時代のうだつで、とても立派で張りがあってかっこいいです。
ここ美濃町はすぐ横を流れる長良川の水害をさけるため、少し高い場所に築かれました。その分、水利が弱く、防火対策としてのうだつが作られはじめたといいます。
その後は「美濃町」の発展とともに、商家の経済力の誇示としてうだつが盛んに上げられるようになったそうです。
「卯建は一生に1度あげれるかどうかというしろもの」という話を聞いたことがありますが、当時は、商人としての一生の甲斐性の証しだったのでしょうか?
現代ではどうもピンとこないところもありますが。
江戸時代まで家屋の建築制限があり、明治に入ってそれもなくなり、以降うだつに乗る瓦は大きく、装飾も華美になっていったそうです。
現在、伝建地区では20数軒がうだつをあげているそうで、確かにうだつだらけでした!
「経済力のある商家ぞろいの町だったんだなぁ」と感心しながら見て回る。
③川湊・上有知湊
幕末の川湊の灯台が残っているのは珍しく、高さ8mの威風堂々としたもの。
明治末に電車が開通して船運が廃れるまで、相当に繁華な湊だったのでしょう。
うだつがそれを証明していると思うのですが、今では想像しづらい。
川湊から、今度は金森長近の小倉山の城跡に行ってみることにします。
『うだつの町並み』②へ続きます。