少しヘンテコな話をします。ここ何年も考える、「太陽」と太陽を心の友にする人間たちの話です(仮に太陽教信者と呼ぶとする)。今回、太陽教信者として、アナクサゴラスと島崎藤村を取り上げました。
そして、私のように友達のいない人に読んでもらえたら、うれしいです。
- 太陽の存在を意識しだしのたはいつからか?
- なぜ、太陽と仲良くなりたいのか?
- 太陽が影響を与えた例?
- 「太陽教」の人を探すこと
- ①「太陽教」信者?アナクサゴラス
- ②もう1人の「太陽教」信者?「島崎藤村」
- ③さらにおすすめ『日想観』
- 最後に(友達がいなくても、「太陽」がいる)
太陽の存在を意識しだしのたはいつからか?
1人での旅行、1人での山越え、地元でも1人ぼっちの時。気がつくと、いつでも視界にある「太陽」を意識し始めました。大人になってからのことです。
なぜ、太陽と仲良くなりたいのか?
誰もが見上げる孤高の存在。そして、毎朝、世界を照らす抜群の安定感。
太陽が裏切って出てこなかったり、西から登ったことなど、ただの一度もありません。そして、日中は着実に歩みを進め、常にエネルギッシュ。
仮に、こんな人間がそばにいたとしたら、友達になりたくないわけがない!
ただ、問題は、超存在すぎて、擬人化もできず、友達になりにくい、という点です。
いかに太陽にアプローチしていくかが、課題となります。
太陽が影響を与えた例?
ここで、太陽が影響を与えた例のごく一部を見てみたいと思います。
◯ 『太陽の季節』 石原慎太郎の小説
◯ 『太陽がいっぱい』 アラン・ドロン主演の映画(1960年) 主人公は人生の絶頂期に、「太陽が照りつけてて人生で最高の気分」とコメント (この後、人生は奈落へ急降下)。
◯ 『てのひらに太陽を』 曲
◯ 『太陽が燃えている』 イエモンの名曲
◯ 『太陽が眩しかったから』 殺人の動機。カミュの小説『異邦人』の有名なセリフ。
◯ 『杉浦太陽』 人名。(読み方は違うが)本名なのだとか。
◯ 『ナオト・インティライミ』 インカの太陽の祭りから。
ちょっとあげただけでも、次々と出てきます。
このように、太陽が影響を与えてる事例って、結構たくさんあります。
「太陽教」の人を探すこと
「太陽教」とは勝手に私がつけた名前で、「太陽教」の信者とはいったいどんな人をさすのかというと、「普段から太陽を意識し、太陽に勇気を貰い、太陽に畏敬の念を抱きながら、生活をしている人」、です。
(もしかしたら、先に書いた「影響を与えた例」にも信者さんがいるかのもしれません。)
この「太陽教」信者は存在する、という予測はあるものの、実生活ではなかなか遭遇することはありません。
「俺、太陽を意識してるんだよね~」なんて言う人、まずいませんもんね(頭のおかしな人に思われてしまいます)。
①「太陽教」信者?アナクサゴラス
私が「太陽教」信者の存在を最初に感じたのは、このアナクサゴラス(BC5のギリシャの哲学者)の言葉を見た時です。
「自分は太陽を讃える為にこの世に生きている」
ガーンって、頭を殴られたような衝撃でした。
アナクサゴラスは、宇宙や太陽を研究していたのでこの言葉があるのですが、おおげさでなく、人生の答えの1つがここにあるような気がしたのです。
②もう1人の「太陽教」信者?「島崎藤村」
アナクサゴラスの衝撃からだいぶたって、岐阜県中津川市の島崎藤村の生家を訪れた時のことです。お土産に買った「藤村読本」を読んでいた時、『太陽の言葉』という作品に出会いました。藤村と「太陽」とのやり取りについて書いてある短編です。
『太陽の言葉』に書いてあるのは、美しい日没を見て、心に驚きと喜びを感じた18歳の少年の日のこと。そして、自分の内にも太陽が登ってくることを感じた25歳の時のこと。それからの藤村は、夜明けを待つ気持ちをずっと抱き続けた、とあります。
わたしは三十年の餘も待つた。おそらく、わたしはこんな風にして、一生夜明けを待ち暮らすのかも知れない。しかし、誰でも太陽であり得る。
わたしたちの急務はただただ目の前の太陽を追ひかけることではなくて、自分等の内部なかに高く太陽を掲げることだ。この考えは年とともに深く、私の小さな胸の中に根を張って来た。 引用:島崎藤村『太陽の言葉』
いたー、いたいた!と思いました。
藤村は、太陽に「おはよう」と語りかけたり、太陽のことを意識し、畏友のように心の内で思っていたのです(おそらく実際の友達は少なかったと思われる藤村です)。
彼は小説家で、自分の気持ちを吐露する場所があったので、こうして太陽への気持ちを遺してくれました。
この藤村スタイル(語りかけ・意識する・心の中に太陽を掲げる)でいいような気もしますが、さらに太陽と友達になりたい編を最後に紹介します。
③さらにおすすめ『日想観』
『日想感にっそうかん』の日想とは、字の如く「太陽を思う」仏教の修行のことで、中世、「極楽浄土に行きたい」と願う人々の間で流行しました。流行した理由の1つは、誰でもできる簡単なものだから。
やり方は、夕日を見ながら、極楽浄土を思いつつ、その夕日を心の中に思い浮かべる、というシンプルなもの。
自分もやってみたことあるのですが、ちょっと不思議な感じがするものです。目を閉じて、今ある夕日を心に描く。自分の胸にあるようにイメージしてもいいし、見たままそのままを浮かべてもいい。太陽との一体感が生まれるのは確かです。
この修行を取り入れて、朝起きたら、1分位「日想」。夕日を見てまた1分「日想」。
極楽浄土は思っても思わなくてもいいけど、1日が始まる感謝や1日が終わる感謝をこめて、その他もろもろとともに、太陽を心に想うのも悪くはないと思います。
京都・清水寺も「日想観」の聖地
最後に(友達がいなくても、「太陽」がいる)
「友達がいない」と悩む人は、結構いるのかもしれません。でも、私のように太陽を友達にする手だってあります。
太陽は、自ら語ることこそありませんが、やることは必ずやる、超頼もしい存在です。誰に対しても平等で、力にあふれ、いつもそばで見守っていてくれます。
そして、偉ぶることなく、いつだって自然体です。こんな友達、人間界ではほぼ見ません。
太陽を感じつつ、良さを真似つつ、太陽を追いかけて生きていく。そんな生き方があってもいいと思うのです。
‥ということで、以上!『太陽と友達になる方法と太陽教信者』でした!ではまた!