「9年間存在した「幻の市」の痕跡を探しに行く旅」(愛知県守山市)
前回ブログを書くさい、昭和38年まで存在した「守山市」という市があったことを知りました。
現在の名古屋市守山区がそれです(以前は市だったとは驚きです)。現地に行けば、なにか痕跡が見られるのでしょうか?
ということで、現地に行ってきました。
さて、どこから探そうか?ですが、名古屋市の守山図書館と守山区役所でとりあえず、聞いてみることにします。
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①守山市役所跡
名鉄瀬戸線「守山自衛隊駅前」で降り、瀬戸街道を西にむかって歩きます。
すると守山図書館にでくわします。
おっと、ありました。
あれ?黒い石に「守山市役所跡」って書いてある!
(期せずして、あっという間に本丸にたどりついた感じです。)
説明版を読むと、「旧市役所」の建物はもう無いようです。「名守合併」なんて言葉も初耳です。守山市が名古屋市に編入した際、当時はちょっと「お祝いムード」だったのでしょうか?
これにて一件落着!で、納得して一瞬帰りそうになりましたが。
図書館で資料探しをします。説明版が図書館前にあるのなら、質問もしやすいはず。
「守山市について知りたい」と尋ねると、「ははぁ」という感じで、こちらの資料を教えてくれました。
昭和38年2月1日の発行。ということは合併の2週間前です。
冒頭に当時の市長の序文がありました。
市長さんはどういう風に考えていたのか、興味あります。
市としては消滅するわけで、哀惜の念などやはりあったのでしょうか?
(直前に迎えた合併について)「市の将来と、住民の福祉向上に最善の道であり、今後は中部経済圏の中核都市として躍進する名古屋市民の一員として、さらに郷土の発展と私の念願達成に微力を捧げたいと思うしだいである。」
序文を読むと、昭和37年の世論調査で、大多数の市民が名古屋市との「合併」を望み、その目標に向かって努力してきた、とありました*1。
一抹の寂しさはあったかもしれませんが、市民みんなの希望をかなえようと一生懸命だった様子がみてとれました。
②守山市消滅の理由
①「合併話」は突然出た話ではなかった。昭和20年代から「合併話」はあった。
② 昭和29年「守山市」が誕生。
③ 昭和30年の市議会議員総選挙で「合併派」が多数を占め、市民にも「合併派」が増えた。
黒田市長が市長に就任したのがそんな昭和30年。
市になったばっかりのまだ軌道にのらない中、合併も念頭にしながら市政を行っていたわけで、相当忙しかったことでしょう。
守山市の人口:4.2万人(昭和30年) →6.7万人(昭和38年)
守山市の予算1.6億 (昭和30年) →8.2億 (昭和38年)
人口も会計も激増してます。これは大変そう。
③『守山市史』(企画・発行 愛知県守山市役所)
この『守山市史』の編纂が始まったのが、合併の3年前(昭和35年)です。
合併が決まったわけではないけれど、合併を見越してすでに動いていたことがわかります。
この本、守山の全てを網羅した内容で、自然・歴史・風土・文化・経済・交通・都市計画・人物‥と多岐に渡り、600ページ以上におよぶ大作です。
こんな百科事典みたいなのを5名という少ない人数で、しかもたったの3年で、よくぞ編纂したなぁ、と率直に驚きです。
④合併がいいのか、独立がいいのか
これはどちらがいいのか、一概にいえない気がします。税金・公共料金が一律安くなるかというと、そういうわけでもないだろうし、決め細かいサービスを行いたいなら、わが市の独立を守った方がよいのでは?とも思います。
財政基盤が弱い場合は大きな市に編入した方がよいのでしょう。
合併のメリットは「利便性の向上」とか「行財政の効率化」とか言われますが、
発言力の強い大船に乗る安心感や、名古屋市のブランド力を利用できることも大きい気がします。
企業・学校・施設・店舗の誘致、居住者数や都市の整備にも差が出そうです。*2
最後に
今では誰も振り返らないような歴史をみつけるのはとても面白いことです。
自分の親も「守山市」のことを知らなかった位で、今ではもう知らない人が多いのでしょう。
雲をつかむような感じで見に行った「守山市」の痕跡探しですが、見つけたのは、「終わり」を見据えて粛々と仕事をしていくという守山市長達の姿でした。
知りたかった57年前の当時の市長の気持ちも『守山市史』のおかげで、なんとなく察することができました。
期待と不安。やりきった気持ちとやりきれなかったものへの心残り。安堵もあったでしょうか。
理解が深まるとそれを見る目も違ってきます。
あまりなじみのなかった「守山区」に親しみを覚えたところで、『9年間存在した「幻の市」の痕跡を探しに行く旅』でした!今回は以上です、ではまた!