【豊川稲荷】 今川義元の痕跡と金運のパワースポット「霊狐塚」(愛知県豊川市)
前回ブログの菟足うたり神社、砥鹿とが神社の帰り、愛知県で有名な’豊川とよかわ稲荷’に参拝しました。お祀りされている’吒枳尼天だきにてん’という女神様や豊川稲荷と今川義元の関係。パワースポットとされる霊狐塚などを見ていきたいと思います。
下記は前回ブログ。
「本殿がどうも善光寺に似てる気がする」ということで、写真で見比べてみました。
似てるけれど、よく見ると違って、年代も全然違いました。
(豊川稲荷の本殿は、1908-1930年の完成。善光寺は1707年の完成です。)
ということで、お稲荷さまで有名なのですが神社ではなく、妙厳寺というお寺です。
ご本尊の千手観音がお祀りされた際、その鎮守の神に「吒枳尼天だきにてん」という異国の女神様がお祀りされました。この吒枳尼天が稲荷信仰と習合をし、’豊川稲荷’と呼ばれて、現在ではご本尊様よりも有名になっています。
【豊川稲荷の面白いポイント】
①立地の謎
現在、駅からまっすぐ歩くとぶつかる豊川稲荷ですが、最初に建てられたのは円福ケ丘という場所であったといいます。*1
今の場所への移転は、元禄(1688-1704)までに完了したといい、今の豊川稲荷はたいへんフラットな場所にあります。
そのせいか少し違和感。古い寺社は、自然豊かな場所や山に建てられ、杜などを持っていたりするものですが、現在の「豊川稲荷」には木々こそあれ、町の中の大きなお寺といった感じなのです。
江戸時代に移転してきたということで、なるほどと思ったのですが、すると、その移転の理由はいったい何だったのでしょうか?
現在地は「伊奈街道」や「姫街道」の側にあり、そうした立地も関連しているのか?以前あった場所がはっきり分かれば、移転の謎がとけるのかもしれませんが、今の段階では不明です。
②今川義元寄進の山門
豊川稲荷に残る最古の建物で、当時のお寺の伽藍の整備をしたのがあの今川義元(1519-1560)といい、すると彼が17才の時の寄進で、今川義元の青年時代の建物が残っているということにも驚きます。
その17歳の時、義元は今川家の当主を継承しています。
ここで、少しだけ義元についてみてみたいと思います。
もともと今川家の3男であった義元は、幼くしてお寺にやられ、僧侶として修業していました。そして、兄に呼ばれて駿府に戻ったのがその17歳の時。しかし不思議なことに、戻るとすぐに長兄が急死し、同じ日に次兄も急死します。
こうした異様の死の後、3男の義元に当主の座がめぐってきます。
義元17歳の1年は、還俗をし、今川家を継承して当主になり、お寺の寄進も行った、怖ろしく多忙な1年だったと想像できます。
そして、1560年の桶狭間の戦いで討たれるわけですが、残された義元の胴体は、家臣たちにより駿府をめざし、運ばれていきます。
しかし腐敗が早く(現在の6月ころ)、しかたなくこの豊川稲荷の近くにあった’一色城’(豊川市牛久保町)に埋葬をしたといいます(60km位搬送した感じ?)。
豊川稲荷は、当時の今川家の三河への影響力。義元の青年時代。桶狭間での死など、今川義元という人間を身近に感じられる場所となっています。
③お稲荷さんのくわえる「巻物」について
「巻物」については、後続ブログで書いています。
④珍しい卍鳥居
境内の参道の石鳥居ですが、鳥居を横から見ると(笠木のところに)「卍」の彫られた、たいへん珍しい鳥居です。
これらは、もともとは江戸末頃の東海道に置かれていたものが境内参道に移転してきたということで、神仏習合時代の名残です。
⑤霊狐塚
’霊狐塚’れいこづかは、境内北側、奥の院の近くにあります。
途中の参道には、献納されたお狐さんの石像がびっしりと並びます。
眼光するどいお狐さんが多いのですが、時代によってお狐さんの顔の表情には差があるのだそうです。昭和はきつく、平成はやさしい?
これら石像は、願いがかなった参拝者によって奉納されたもので、こうしたことから’パワースポット’と呼ばれています。
この霊狐塚の黒い溶岩のところで硬貨を見つけると「お金もちになれる」という噂があるそうで、休日には人だかりができるくらい人気なのだとか。
(お賽銭をはさんでいく人がいるから?)
というわけで、吒枳尼天や今川義元を中心に紹介した『今川義元の痕跡と金運のパワースポット』でした!以上です、ではまた!
続きの『豊川稲荷のお土産編』もあります。
*1:川の近くにあった高台だという。