「逆柏手(裏拍手)」「逆さごと」「逆打ち」「逆さの埋葬」「養老天命反転地」【逆さの本能的な恐怖を考える】
風習や葬送などで「反対に行う、逆さに行う」事例をしばしば見ます。
逆さということに本能的にすごく怖さを感じるのですが、今回は逆さについて思いつくままにあげ、なぜ怖いのかを?探ってみたいと思います。
①「逆柏手」と「天の逆手あまのさかて」
『古事記』の「国譲り」の章にみられる一文です。
「すなはちその船を踏み傾かたぶけて、天の逆手を青柴垣に打ち成して隠りましき」
国を譲るように強要された事代主命ことしろぬしの神は*1、あっさりと承諾をし、「逆さに柏手をうって、(乗っていた)船を青柴垣に変えて隠れられた」と書かれます。
これは訳も意味も難しいのですが、「隠れられた」とは「幽界に行った」とも解釈されます。
この「天の逆手」が、現代の『怖い話』の裏拍手と同じもの。起源が同じというように一般的にみられているようです。
「裏拍手」は、手の甲と甲とを打ち合わす音の出ない拍手で、相手を呪うしぐさと言われます。ネット上では、ライブ会場の観客席で裏拍手をする不気味な観客の姿が話題となりました(現在でもその画像を拾うことができます)。
正直、この新旧2つの「裏柏手」のつながりに、いまいち釈然としないところはあるのですが‥。
『古事記』などに見る、天の逆手は何らかの呪術といわれますが、それは甲と甲をうちつけるのか、手先を地面に向けてうつのか、背中に手を回してうつのか諸説あり、詳細は不明です。
この「天の逆手」が出てくることで有名な古典が、もう1つあります。
〇『伊勢物語』の96段
「かのおとこは、天の逆手をうちてなむのろひ居るなる。むくつけきこと。人ののろひごとは、負ふものにやあらむ、負はぬ物にやあらん。「今こそは見め」とぞいふなる。」*2
会う約束をしていた女性に反故にされた恨みから、男が「天の逆手」を打って呪うというシーンですが、『古事記』と全く同じスタイルの打ち方だったのでしょうか?
時代の違う2つの書に記された「天の逆手」は、果たして同じものだったのでしょうか?今となってはよく分からないのですが、とても気になる記述です。
②葬送にみる「逆さごと」
逆さごとは、土地土地で色々なものがあるようですが、代表的なものだけを取り上げました。
「逆さ屏風」 故人の枕元の屏風をひっくり返す。魔除けにも。
「左前」 通常の着方とは合わせ方を反対にして着せる。
「逆さ着物」 スソ側を顔に、エリ側を足にして、被せる。
「タテ結び」 腰ひもなど、わざとタテ結びに結ぶ。
「逆さ水」 水にお湯をいれてぬるくし、湯かん用に使う。
「外柄杓」 柄杓の水は左側にあけるのがふつうで、右側にあけるのが「外柄杓」。やはり、湯かん用に使うそうです。
「逆さぼうき」 死者の枕元に逆さに箒をたてる。魔を払うためとも。
これらの逆さごとは、この世とあの世とを隔絶させるため。また、「あの世はこの世とは逆さまの世界である」という観念による、といわれています。
③お遍路さんの「逆打ち」
これは、映画『死国』で初めて知りました。
もともと閏うるう年に「逆打ち」(「四国88ケ所」を順番とは逆周りに参拝すること)を行えば、弘法大師に会えるという伝承があり、映画はそこからの着想と思われます。*3
亡くなった人の年齢分、逆打ちで回れば死者が蘇る、というのが映画の内容でした。
(いっけん荒唐無稽な話の気もしますが、「立山信仰」にも「立山に行けば亡くなった人に会える」というものがあり、霊場にはこうした話が割と多い気がします。)
「逆に行なう」「困難をともなって行う」ことで、尋常ではない何かに出会える、というわけなのですが、それを行う人間の情念を感じてゾクッとしてしまいます。
④「逆さにして埋める」
変死した人間、恨みを持って死んだ人間をす巻きにし、逆さにして辻や橋のたもとに埋める、ということがかってされた、といわれます。
「逆さにする」のはやはり、出てこられないようにするためで、辻や橋のたもとという境界*4を選んで埋めたそうです。
往来の激しい辻に埋めることで四六時中踏み固められ、「さらに出てこられなくする」のですが、これまた恐ろしい気がします。
⑤「養老天命反転地」
不気味な話が続きましたが、最後に「逆さ」つながりで、「養老天命反転地ようろうてんめいはんてんち」をあげたい、と思います。
「養老天命反転地」は、岐阜県養老町にあるアートなテーマパークで、公園内にはいくつもの不思議な建物が建てられています。
土地がまっすぐじゃない(まっすぐ歩けない!)。建物の中に入ると、上下左右がおかしい!家の家具がヘンなとこにある、天井から何か生えている?、といういつもの感覚が脅かされる場所です。
「通常」や「ふつう」とはいったい何だったのか?を考えさせてくれる楽しい施設で、個人的にはとてもオススメな場所です。
「極限で似るものの家」 Kikuhiko Mizusaki/ Link
最後に
公園のことを書いていて思ったのですが、逆さに本能的に不気味を感じるのは、まず私たちの平衡感覚にそぐわないというのが、大きいようです。
上下左右がきっちりとした世界に生きている私たちには、何かが「逆さである」というのは、とんでもない違和感です。
以前、昔話で化け物が縁側の屋根の上から逆さに覗く、という記述を見たことがありますが、こうした異様な出現が脳に違和感を与え、さらに心臓にも影響を与えるのだと思うのです。
また①②④にみる人間が意図的に行う「逆さの事柄」には、「異常な状態に相手を追いやりたい」という、人間の強い意志を感じてぞくっとするのでしょう。
‥ということで、『逆さの本能的な恐怖を考える』でした。まだ事例を全然探し出せていないので、これからも探していきたいと思いながら、今回は以上です!ではまた!