有名な「長篠の戦い」が行われた新城しんしろの設楽原したらがはら古戦場に行ってきました。
飯田線・三河東郷とうごう駅で下車し、決戦場や復元された馬防柵、「設楽原歴史資料館」、首洗池などを歩いています。
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「長篠の戦い」
長篠の戦い(1575年5月・新暦では6月末-7月上旬頃)は、三河侵攻などを目的とする武田勝頼軍と織田信長・家康連合軍が東三河で激突した戦いで、結果は、連合軍側の勝利となりました。
武田方の宿将の多くが討ち死にし、勝頼は甲府へ逃げ延びますが、この後、武田氏は求心力を失い、衰退していくことになります。
地形は、北に向かって高くなっていきます。
写真の交差点の奥に行くと竹広激戦地。この辺りでも戦ったのかなと想像がふくらみますが、ふきんいったいで戦っていたことでしょう。
さて、「首洗い池」は錦鯉が泳ぐ、少し赤い池で、この赤色、鉄分を多く含む土壌の色なのだとか。池があるのは戦場の南、土地が低くなっているところです。
この2つの大きな塚が「信玄塚」で、両軍の死者16000人(?)が葬られているといいます。
信玄塚というネーミングに思わず信玄のお墓かと思ってしまいますが、ではなし。
この塚のすぐ側に、設楽原歴史資料館があります。
設楽原歴史資料館
館の前の銅像は、岩瀬忠震(ただなり・1818-1861)で幕末に「日米修好通商条約」を結んだ1人。*1
(そういえばなんか指さしていますが、何を指さしていたのかな?)
この歴史資料館では、長篠の戦い、火縄銃のコレクション、この岩瀬忠震コーナーなどを見ることができます。
館内の野田城の模型です。この野田城もここからそんなに遠くない三河の城で、「長篠の戦い」直前のストーリーがあります。
信玄はこの野田城を攻め落とした後、喀血して発病。数か月後に53歳で、亡くなっています(1573年)。*2
こちらは、敵味方を識別する「合印あいじるし」。
「南無諏訪大明神」とあり、そういえば武田勝頼は、最初、諏訪氏を継ぎ、諏訪勝頼をなのっています。
武田家の4男で他家に出され、武田の家督を継ぐ予定ではなかったといい、だから、武田家をうまくまとめきれていなかったという話も。
さて、館の屋上からは設楽原の古戦場が一望できます。
上の写真、手前のモコモコした茂みが武田軍の陣地です。織田軍と相当近いです。目視で数百mくらいにみえます(近いっ、近すぎる!)。
こちらも手前の茂みが武田軍の陣地になります。
後編は、馬防柵や決戦地へ向かいます。
ということで、以上、 『長篠の戦い①』でした!ではまた!