断崖絶壁の要塞の城「長篠城」(豊川が守る、川の合流地点に建つ城)(愛知県・新城市)
前回ブログの続きで、今回は豊川とよかわが守る、天然の要害の城「長篠ながしの城」について。
その他、「鳥居強右衛門すねえもん」のエピソード、「長篠城址史跡保存館」などについて載せています。
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①「長篠城」について
1508年、菅沼すがぬま氏によって築城されました(この時は今川方)。やがて、徳川氏に従います(武田方の時期もあり)。
1575年の「長篠の戦い」当時は、徳川方の城で、城主は奥平氏。
この「長篠城」は、東西・南を断崖絶壁に守られた天然の要害の城で、北側だけ平たんで守りが弱いため、堀を2重にし(川をせき止めた深い水堀)、土塁をもうけてカバーをしていました。
②「長篠城」攻防戦
1575年、三河侵攻を開始した武田勝頼の軍(1.5.万)は、この長篠城(守備500)を攻めます。
5/8、戦闘が始まります。武田軍は竹筏で上陸し、断崖絶壁を登ろうとして石を落とされたり、横穴掘りをしてみたり、兵糧蔵を破壊したりしています。
そうこうするうちに、「鳥居強右衛門の脱出行」(後述)があり、徳川・織田の援軍も到着します。
徳川・織田の連合軍は少し離れた設楽原したらがはらに陣地を構築。
5/21、その設楽原で「長篠の戦い」が開戦、という流れになります。
長篠城周辺 右にある「鳶ケ巣山とびがすやま砦」をはじめ5つの砦が武田軍の陣地
引用:『鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台』p45-46より
長篠城跡からみえる「砦跡」(どれがどれなのか)
③豊川の断崖に建つ城
さて、この長篠城が「日本100名城」の1つと聞いても、「長篠城址史跡保存館」の写真ののどかなイメージもあり、全然想像できていませんでした。
左側が豊川(寒狭かんさ川)、右側が宇連うれ川で、その合流地点の断崖に城はあります。川の流れはけっこう早く感じます。
この長篠城跡が体感できるのは、城跡の南側で、
この本丸の南側を、下にある川を見下ろしたいのですが、木々にさえぎられて全く見えません。残念!
木々で状況が分からないけれど、フェンスの向こうは断崖絶壁のよう。それは、聞こえてくるの川音からも察せられるのですが、立地がまるで分からず、ちょっと怖い。
対岸もまるで見えませんが、「長篠の戦い」で有名になった鳥居強右衛門すねえもんの磔にされた場所や碑があるようす。
また、城の北側には当時の堀と土居が残り、1575年当時はこの堀に水を入れていたといいます。
城の外に出て、城を眺めてみます。城の北側は平らで、南の険しさがウソみたいです。
また、城のすぐそばに「中央構造線」の露頭ろとうがあるというので、見にいってみました。
しかし、途中の看板に「崩落のため、行けません」とあり断念(ほんとだ!何か崩れてる!)。
また、この露頭の側には武田四天王の1人・馬場信房(62)のお墓もあります。
「長篠の戦い」の殿しんがり線で戦死したといい、設楽原の決戦場からは少し離れた場所です。
④長篠城籠城戦のハイライト?「鳥居強右衛門」のエピソード
鳥居強右衛門(36)は、長篠城主・奥平おくだいら氏の家臣(陪臣?)で、*1
1575年、長篠城が武田の大軍に包囲された時、徳川氏に援軍を求めるため、家康や信長に危機を知らせに行った足軽であった、といいます。
強右衛門は、深夜に「野牛廓」の不浄口(下水口)から脱出。豊川を4km泳ぎ、下流地点で上陸したとあります。*2
真の闇の中、敵に悟られないようにあの断崖絶壁を降り、泳いだ、というのはにわかには信じられません。しかも川は急流で、4kmも果たして泳げるものなのか?岩もあるし、ですが。
こうして見事脱出した強右衛門は、首尾よく家康・信長に会うことができます。
この時点で、もう援軍が長篠に向かっていたので、強右衛門はこれを城内の仲間に伝えるべく、また長篠城に引き返します。
そして、城内に戻ろうとしているところを武田方に捕らえられ、奥平方という素性も暴かれます。
武田方の提案は、城内に向かって「援軍は来ない。諦めて開城しろ」と叫べば、武田の家臣として厚遇するというものでした。
この時、強右衛門の取った行動は、「あと2-3日で援軍がくる。それまで持ちこたえろ!」と城内に絶叫する真逆のものであったといいます。
それを聞いた武田勝頼(30)は激怒し、部下に磔にさせたか切り殺した、と言われています。
逆磔バージョン(諸説あり) Otiai Saheiji Michihisa /Link


強右衛門が捕まり、磔刑にされたところという
⑤「長篠城址史跡保存館」
さて、長篠城址史跡保存館では、長篠の戦いに関連する展示を見ることができるのですが、1番の目玉はこれ。
籠城時、奥平軍が使ったもので、奥平家の家宝となっています。太鼓の下の部分にみえる血の色が鮮やかなのに驚きます。


最後に
ということで、天然の要塞・長篠城を見てきました。
東西・南からの侵入はたいへん厳しい反面、北側は同じ城か?と思うほどの平たんさで驚きました(だいぶ壊されているそうですが)。
信玄が攻めた「野田城」、後の「新城しんしろ城」やその他の東三河の城の多くが、豊川*3の河岸段丘上に作られ、守りを固めていました。
中でも、もっとも急峻な立地に作られたのがこの’長篠城’で、武田の侵攻をはばんだのは、豊川の作った地形のおかげともいえそうで、改めて豊川という大河の流れにも感心した今回でした。
というわけで、『断崖絶壁の要塞の城・長篠城』でした!以上です、ではまた!
下記ブログでは、豊川の河岸段丘についてふれています。