前回ブログ、『京都の有名なお墓巡りがしたい』の後編です。
後編では、秀次の「悪逆塚」のある瑞泉寺、信長のお墓のある「阿弥陀寺あみだじ」の2つをお参りしています。
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①「瑞泉寺」(中京区)
鴨川・三条大橋のたもとによくみないと行き過ぎてしまうような間口の小さなお寺・瑞泉寺があります。
この瑞泉寺、豊臣秀次一族の菩提を弔うため、京都の豪商・角倉了以らによって創建されました。
このお寺のある場所こそ、1595年(文禄5)、自刃に追い込まれた秀次(1568-1595・秀吉の甥)の首がさらされた「秀次悪逆塚(殺生塚・畜生塚とも)」があったところといいます。*1
絵巻などでみると鴨川の中洲に2段の塚を築き、その上に西向きの石の祠があるのが見えますが、この中に秀次の首を納めたといい、境内の供養墓にその秀次の首を置いた「石びつ」が安置されています。
当初、この石びつには「秀次悪逆塚」の文字が彫られていたといいますが、’秀次悪逆’の字は角倉了以らによって削られ、現在では秀次が自害した「七月十五日」の日付が何とか読める感じ。
瑞泉寺にはこの「秀次事件」の展示があり、上は処刑された一族39人(妻など34人、子供5人)の辞世の句と姿を描いたもので、そうした展示ををみるとやはりこれは実際にあったことなのか!と衝撃をうけます。
瑞泉寺のパンフ・説明板には、処刑された順番までが載っており(子1、婦1など)、どんな気持ちで処刑を待っていたのだろうかと暗澹たる気持ちに。
市中引き回しにされた秀次一族は、塚の上に置かれた秀次の首が見守る中(命じた秀吉はとんでもないサイコパスでは?)、次々に処刑、遺体は大穴に放り込まれ、その上に先ほどの塚が築かれたといいます。
側室ら20人の実際に着ていた衣装で表装された「辞世の句」の掛け軸の衝撃!
2021年、刈谷市歴史博物館(愛知県刈谷市)で「豊臣秀次展」が開催され、2幅出展されていましたが、豪華絢爛な刺繡・色の鮮やかさは何百年という時を感じさせず、これまた驚きでした。
②阿弥陀寺(上京区)
さて、最後の阿弥陀寺あみだじですが、この阿弥陀寺、あの信長の骨を埋葬したお寺といいます。
あれっ?信長の遺体はみつからなかったのでは?と思うのですが、
『信長公阿弥陀寺由緒之記録』によれば*2、本能寺の変の際、信長と懇意だったこのお寺の清玉上人が本能寺にかけつけると、切腹した信長を家臣らが今まさに火葬にしようとしている場面であったといいます。
火葬と菩提を弔うことを引き受けた上人がそのまま火葬にし、骨を寺に持ち帰り、信長の墓所としたといいます。
その後、河原で休憩している明智光秀に許可をとり、本能寺・二条城で討ち死にした者らの遺体も合わせて引き取りますが、その中には信忠や家臣らのものがあったといいます。
こう聞いて、そんなに首尾よくいくものか不思議ではあるのですが、信長と阿弥陀寺の清玉上人が親しかったこと、本能寺の変の翌月にはお墓があったという記録など*3、ぜひ1度はお参りしてみたいお墓となっています。
最後に
ということで、京都の気になるお墓巡りをしてきました。
巨大な姿に圧倒される「耳塚」、大石段のその先の京都の町を見下ろす「阿弥陀ケ峰」、平安からの葬送の地・鳥辺野、秀吉の異常さを感じる「秀次悪逆塚」など個性のあるお墓ばかりでたいへん見ごたえがありました。
ちなみに、秀次の首はいつのまにか’悪逆塚’から移され、「善生寺」にお墓があるということなので、次回はそこもお参りしたいな、などと考えています。*4
というわけで、以上、『京都の有名なお墓巡りがしたい②』でした!ではまた!
【参考】
◯楠戸義昭『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』2017