『愛知県一宮市』を散策してきました。ルートは『一宮城址』『浅野公園』『浮野うきの古戦場』『真清田ますみだ神社』をめぐる歩き旅です。「一宮市」のイメージは、真清田神社の門前町。繊維業、七夕祭り‥。尾張地方の拠点の1つとして栄え、人口の多い場所のイメージです。名古屋がすぐ近いので、ここから名古屋に通う人も多いでしょう。
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『一宮城跡』
駅から300m位の所(一宮市本町)に、石碑とプレートが設置されています。
プレートを読むと、「もともと関氏の城。信長、秀吉に仕え、城主は「小牧長久手の戦い」(1584)で戦死。続いて不破氏の城。1590年不破氏が城を去り、廃城。秀吉も立ち寄ったことがある」、ということが書かれていました。
遺構はみあたらず、平城だったという話の通り、付近の地形もフラット。
この『一宮城跡』は、尾張一宮「真清田神社」の500-600mの南にあります。
「真清田神社に関係してそう」という予想通り、「真清田神社」とその周辺を守る城で、城主の関氏は「真清田神社」の神官でもあったそうです。
武家であり、神官も兼ねるというのが、中世な感じで面白いです。
ここから3Kmくらい歩いて、『浅野公園』を目指します。
『浅野公園(浅野長政邸)』
秀吉5奉行の1人『浅野長政』(1547-1611)の邸宅跡地です。ぐるりとお濠が整備されているので、お城の跡かな?と一瞬思いますが、公園として整備されたのは大正時代ということでした。
長政は「浅野家」の実子ではなく、婿養子に行った「浅野家」のお家、ということでした。「ねね」もこの家で、養女として過ごした期間があったのかな?
うーん。邸宅の中心地だった⑨「記念碑山」と⑦「寧々の歌碑」が見たいかな?
寧々の歌碑は割愛しました(歌は凡庸な気がしたので‥)。
ここからまた3Kmくらい歩き、『浮野古戦場』を目指します。
『浮野古戦場』
「浮剕首塚うぐいすづか」という文字の並びが不気味ですが。もともとこの辺りに、「鶯ケ池」という池があったようで、地名からの当て字のようです。*1
『浮野合戦』は、1558年7月、25歳の信長が岩倉城の織田軍と戦った戦いです。
両軍とも3000位の兵だったと言われ、正午位から開戦。2時間くらい戦闘が続き、信長方の勝利となります。
翌日、信長は打ち取った首を首実検。1250以上の首代があった、と『信長公記』に記されています。その首を埋めたのがこの「浮剕首塚」という話。
塚よりも、思わず隣のコンテナに書かれた文字に目を奪われる。「現代感覚の焼きそば」?
原っぱでの戦いだったのかな? こんな見通しのいいところで戦いたくないなぁ
この「浮野の戦い」、清州勢と岩倉勢の抗争なのですが、興味を引くのは、その中間地点ではなく、岩倉の北数kmの「浮野」で戦っている点です。
赤丸が「浮野古戦場」 © OpenStreetMap contributors
岩倉城を攻めるにあたって、当時の木曽川の分流を越すのが大変で、西側や南側からは攻めづらい。足場の良い、北側の浮野に布陣したため、といわれます。
(濃尾平野での戦いは、丸見えで逃げづらそう‥)
ここからバスに乗り、『真清田神社』に参拝し、帰宅をしました。また、『真清田神社』周辺についても面白いので、書きたいと思います!
‥ということで、以上、『浮野古戦場』『浅野公園』【尾張一宮歩き】でした!ではまた!