①「浮野古戦場跡」(信長の尾張統一戦 1558年)②「浅野公園(浅野長政邸)」(秀吉5奉行の1人)(尾張・一宮)
今回は、愛知県一宮市の「一宮城址」「浅野公園」「浮野うきの古戦場」を訪れています。
一宮は、尾張一宮・真清田ますみだ神社の門前町で、尾張地方の拠点の1つとして栄え、繊維業、七夕祭りが有名。人口も多く、名古屋へここから通勤する人も多い町です。
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①「一宮城跡」
駅から300m位の所(一宮市本町)に、石碑とプレートが設置されています。
プレートには、「もともと関氏の城。信長、秀吉に仕え、城主は「小牧長久手の戦い」(1584)で戦死。
続いて不破氏の城。1590年不破氏が城を去り、廃城。秀吉も立ち寄ったことがある」、と書かれていました。
遺構はみあたらず、平城だったという話の通り、ふきんの地形もフラットです。
この「一宮城跡」は、真清田神社の500-600mの南にあり、神社に関係がありそうという予想通り、真清田神社とその周辺を守る城で、城主の関氏は真清田神社の神官でもあったそうです。
武家であり神官も兼ねるというのが、中世な感じで面白いです。
そして、ここから3kmほどの「浅野公園」を目指します。
②「浅野公園(浅野長政邸)」
秀吉5奉行の1人・浅野長政(1547-1611)の邸宅跡地です。
ぐるりとお濠が整備されているため、お城の跡か?と一瞬思いますが、公園として整備されたのは大正時代という話。
浅野長政は、浅野家の実子ではなく、婿養子であり、後に秀吉と婚姻する「ねね」はこの浅野家の養女で、この2人は義理の姉弟(か兄妹)という間柄です。
よく整備された浅野公園ですが、邸宅の中心地だったという⑨「記念碑山」と⑦「寧々の歌碑」を特に見にいってみます。
ここからまた3Kmほどの「浮野古戦場」を目指します。
③「浮野古戦場」
「浮剕首塚うぐいすづか」という文字の並びが不吉ですが、もともとこの辺りに「鶯ケ池」という池があり、地名からの当て字とか。*1
浮野合戦は、1558年7月、25歳の信長が岩倉城の織田軍と戦った戦いです。
両軍とも3000ほどの兵だったと言われ、正午位から開戦。2時間くらい戦闘が続き、信長方の勝利となります。
翌日、信長は打ち取った首を首実検。
『信長公記』には、1250以上の首代があったと記され、その首を埋めたのがこの「浮剕首塚」といいます。
この「浮野の戦い」、清州の織田勢と岩倉の織田勢の抗争なのですが、興味を引くのはその中間ではなく、岩倉の北数kmの浮野で戦っている点です。
これは、岩倉城を攻めるにあたって、当時の木曽川の分流を越すのが大変で、西や南からは攻めづらく、足場の良い北側の浮野に布陣したためといわれます。
しかし、濃尾平野での戦いは丸見えで逃げづらいし、大変そう。
というわけで、尾張時代の信長の戦闘地と、浅野家の跡地を見てみました。
一宮近辺は、土地の様子・地名など古風な風情が残り、地味に面白い場所です。
また歩きたいなと思いつつ、以上、『浮野古戦場・浅野公園』でした!ではまた!