物欲子(ぶつよくこ)のブログ

物欲子(ぶつよくこ)のブログ

(おもに)物欲ぶつよくの記

『珍しいお墓や変った埋葬方法について考える【後編】』【④藤ノ木古墳】【⑤豊臣秀吉の墓】【⑥尾張藩祖の廟】【⑦大阪 一心寺のお骨仏】

前回ブログからの続きです。興味のある珍しいお墓変わった埋葬法を見ていきます。後編では「藤ノ木古墳」「豊臣秀吉の墓」「尾張藩祖のお墓・源敬公廟」「大阪・一心寺のお骨仏」の4つを取り上げました。

butuyokuko.hatenablog.com

④「藤ノ木古墳」(6世紀後半・奈良県生駒郡

 

未盗掘の石室や石棺から豪華な副葬品や遺体が発見され、話題になった「藤ノ木古墳」ですが、異様に感じるのは同じ棺に2人の男性が埋葬されていることです。

この2人は有力皇族の穴穂部皇子あなほべのみこ宅部皇子やかべのみこといわれてます(崇峻すしゅん天皇説もあり。この3人全員が権力闘争の中で暗殺をされています)

f:id:butuyokuko:20201121063826j:plain

出典引用:「古代史の謎に迫る!奈良県・藤ノ木古墳と斑鳩文化財センター

「合葬墓」にはふつう、配偶者・家族が合葬されるイメージですが、この2人の皇子はともに物部派で親しい間柄であったといわれています。

(『日本書記』には、「穴穂部皇子」が殺害された翌日に「宅部皇子」が殺されたとあります。)

合葬墓でもふつうは「1人1棺」で、権力者が2人1棺」というのはやはり尋常ではない「死の理由」がそこにあるような気がしてしまいます。

 

正面を向く北側の「穴穂部皇子?」に対し、寄り添うように南側に「宅部皇子?」が横を向いて配置されていますが、棺の横幅は130cmで棺の厚み分を考えるともうキュウキュウのためでしょうか?

(2遺体とも10数枚の綿・絹布で巻かれており、厚みもあったことでしょう。)

また、埋葬前に消化器官など内臓が抜かれていた可能性が指摘されています。

異常な死に対しても「もがり」は行われたのだろうか?とか、内臓を取り出したのは腐敗を遅らせるためなのだろうか?とか色々なことを想像をさせる藤ノ木古墳です。

とは、日本の古代に行われていた葬送儀礼。 死者を埋葬するまでの長い期間、遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。 その柩を安置する場所をも指すことがある。                    引用:wikipedia

 

⑤「秀吉の遺体」(豊国廟・京都市東山区

 

豊臣秀吉の墓が一体どこにあるのか、イメージは薄いのではないでしょうか?秀吉(1537-1598)のお墓は京都市東山区阿弥陀ケ峰にあります。

f:id:butuyokuko:20201121121152j:plain

「豊国廟」(563段の石段を登ったところにお墓はある)

KENPEI - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, Link

 明治30年(1897)、秀吉を祀る「豊国廟」の整備が行われた際、偶然、秀吉の遺体が発見されます。粗末な(高さ1mほど)の中で西の方角を向き足を組み掌を組んだ形でミイラ化していたといいます。

発見時の不手際で、秀吉の遺体はボロボロに崩れ、それを拾い集めて改葬したという話で、発掘調査などは行われないまま現在に至ります。

 

実を言うと、秀吉の墓はそれまでずっと無事だったわけではなく、元禄元年(1688)ころ盗掘に遭い、副葬品なども盗まれたといいます。

その際、もともと「木棺」に入っていた遺体が「甕」に移し替えられたのではないか?と推定されています。

 

こうした発見時の様子は①湯本文彦『豊太閤改葬始末』明治39年発表)に記載されているそうですが、今回は読むことができず、②③のサイトが詳細に紹介をされていてたいへん参考になりました。

① 湯本文彦『豊太閤改葬始末』「史学雑誌17-1」1909 

②『豊国廟に建設された五輪塔は、石段の上にある高さ10mの巨大石造物』(「京都発!ふらっとトラベル研究所」)

③『【発掘されていた秀吉の遺体!太閤の歯、秀頼の手形を伝える宝物館』(歴人マガジン)

 また豊国神社の「宝物館」では、秀吉の手紙」。秀頼の手紙」などの展示があるそうで、次回京都に行った際は是非訪ねてみよう!と考えています。

 

⑥「源敬公廟」(定光寺・愛知県瀬戸市

f:id:butuyokuko:20201121053138j:plain

『源敬公廟』内への入り口

愛知県瀬戸市にある「定光寺じょうこうじ」です。尾張藩祖・徳川義直よしなお(1601-1650)を祀る儒教様式の廟があることでも有名なお寺です。

この源敬公廟げんけいこうびょうで注目するのは、向かって右手に9基並ぶ殉葬墓」です。1650年(慶安3)、義直が亡くなると5名が殉死をしその陪臣4名が後を追いました*1

f:id:butuyokuko:20201121053133j:plain

徳川義直」のお墓

f:id:butuyokuko:20201121053143j:plain

シンプルな儒式の墓碑

f:id:butuyokuko:20201121053154j:plain

向かって右側が「殉葬墓」

f:id:butuyokuko:20201121053159j:plain

盛り土の上に墓碑(後ろに並ぶのは「陪臣」のお墓)

f:id:butuyokuko:20201121053211j:plain

青丸が「殉葬墓」

右側に殉葬墓が配置されたのは、「左上右下さじょううげ*2などの理由でもあるのかと思い、お寺の方にも聞いてみたのですが、「たまたまそういう立地だったのではないか?反対側は場所が取れなかったのではないか?」とのことでした。*3

源敬公廟は整然とした秩序の内に、お殿様と大切な家臣たちを静かに眠らせているような、とても印象深い墓域となっています。

 

⑦「お骨仏」(一心寺・大阪市天王寺区

 

f:id:butuyokuko:20201121053129j:plain

「一心寺」の斬新な山門と現代アートな仁王様

一心寺いっしんじさんは、遺骨で作られた「お骨仏おこつぼとけ」で有名なお寺です。10年間に納骨されたお骨を集めて1体の阿弥陀仏を作っています

 

「お骨佛堂」には、そうやって作られた8体の阿弥陀仏が並びます(通算14体。6体は戦災で焼失)

(あまりにたくさんの遺骨(を成型したもの)を見て絶句し、さすがに写真を撮ることはできませんでした‥。)

 明治20年に始まった最初の1体目以降、約200万人のお骨が「仏様」になっている一心寺の様子を最初に見た時は大変驚いたのですが、ひっきりなしにお参りされ、焼香されている阿弥陀様を見ていて、誰も来ない普通のお墓よりもいいのかもしれない。大阪の喧騒の中にあって安心するかもな、と感じました。

www.isshinji.or.jp

名古屋市中村区にも「中村観音」(白王寺)という無縁仏・遊郭の遊女のお骨から作られた「骨仏」があります。

[http://:title]

 

最後に

 

‥と、興味のある「お墓」「埋葬」について見てきました。

推測ばかりにはなってはしまいますが‥、「なぜその形にするのか?」「そこには必ず意味や意図があるのではないか?」と思いながら、お墓めぐりをしています。

また常に変化のある世の中で、お墓だけはタイムカプセルのように時が止まっているのも面白く感じます。

最近ネットで、「恐怖と興味は紙一重」という書き込みをみて「なるほどなぁ」と感心することがありました。その通りなのです!お墓や死者の世界に「恐怖」を感じながらも、原因を知りたい「好奇心」の方が勝るのです。

また興味深いお墓・埋葬などを見つけたら、ブログであげたいなと考えながら、以上、『珍しいお墓や変った埋葬方法について考える【後編】』でした!ではまた!

*1:「陪臣」家臣の家臣をさす。

*2:皇帝などは北を背に南面する。皇帝から見て左側は上位とされた。東にあたり、日が昇る方向でもあるため。

*3:定光寺さんが出版された『定光寺誌』(1985)なども目を通してみたのですが、配置について触れた記載はありませんでした。