物欲子(ぶつよくこ)のブログ

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(おもに)物欲ぶつよくの記

『高所恐怖症②』(その後の克服編)

以前ブログで書いた切実な問題「高所恐怖症克服の続編です。

「橋を渡る」「登山」を克服するため、先回ブログ以降に行ったこと、思ったことなどを書いています。同じような悩みのある高所恐怖症の方に読んでもらえたら嬉しいです。

butuyokuko.hatenablog.com

前回書いて気づいたこと

 

前回ブログに書いたことで、「勝手に恐怖症になってるだけという気づきもありました。

誰かと一緒にでかけることが1番

 

私は山でも旅行でも1人で行動していますが、この1人の行動がどうも恐怖・心配をあおっているようだと気づきました。

高所恐怖症があまりひどい場合は、誰かと一緒に行ってもらうことで自分を安心させ、それを繰り返し慣れるというやり方がホントは1番いいのかもしれません。

 

②「高所恐怖症はなぜ年々ひどくなるのだろう

 

昔はこんなにひどくはなかったのにっ、てね。

やはり年を取ると、経験を重ねた分、色々考え過ぎてしまうことが原因かと。「あの時怖かったという恐怖経験が心や行動をむしばむよう。

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川にかかる長い橋がなにしろ怖いんです

 

高所克服の改善に役立ったこと

 

信用してみる&大木を歩く蟻んこをイメージ

 

「橋が落ちる・裂ける」「山道が崩れる」「山道で足を踏み外し落ちる」という悪い想像。

結局、私は信じていないわけで。橋の強度も山道の強度も自分自身も。

もう結局信用するしかないんです!

最近は「自分は大木を歩くアリ」であるとイメージ。自分は蟻んこだから大丈夫だと思いこませ、歩道橋などを渡っています。

 

構造物の本を読む

 

これはたまたまですが、『高速ジャンクション橋梁の鑑賞法』という本を読んだことが、意外と精神を楽にしたという話。

この本には、橋やジャンクションの設計・構造についての説明があるのですが、

橋に反りがある・つり橋が揺れる、なんていうのも強度面を考えて作られているせいとうっすらと分かり、そうした理屈が自分を落ち着かせてくれました。

構造物の設計を知ることが高所恐怖症の軽減につながるなんて、よもや考えもしなかったけど!

でも、私のうすい理解でも気が楽になったのだから、効果はあり(理屈ぽい人にはいいかも?)。

この本を読んで以降、反って作ってある橋をみると「大丈夫だあれはすごい考えて作ってくれてる橋だぞ」とか、

太い橋脚をみれば、「すごい荷重に耐えられる設計にしてあるぞ」とか、少し冷静に眺めることができるようになったのはほんと大きい。

大体のところはOKなはず。だから、あとは見るからにダメそうな所(歩道橋の赤錆び、山道の滑りそうな場所)を目視で確認して避けるだけですよ!

 

靴を体にあったものに。体幹を鍛える。

 

これは山での話。トレーニングもしてない私は脚力が弱く、山では常にフラフラ。

足元を安定させるためにも、あまり足にあってなかったトレッキングシューズを新調、トレイル用の靴も購入しました。

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店員さんに相談。体にあったトレッキングシューズに

もう1つ、これもたまたま買った、姿勢を整える・屋内筋トレ用の「ダイエットスリッパ」。

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ダイエット・スリッパ

これをはくのとはかないのでは、足の使い方がだいぶと違って、多分、以前よりは体幹がよくなった(と思う)

最初に履いた時はフラフラでまっすぐに立つことも怪しかったのに、今ではどうということもなし。

家にいる時はずっと体幹レーニングな感じに。

足元を安定させて、バランス感覚を鍛えることは、自分に秘かに自信をつけさせてくれ、これも効果ありでした。

 

どうしてもだめな時は「視界にいれない」

 

でも、どうしてもダメって時もある。あまり無理しない

怖くて仕方ない時は、山でも橋でも足元だけ見る。橋の下はみない、崖の下はみない。

ただ足元を見てひたすら歩くだけ。

 

思考錯誤の「ブリンカー・メガネ」

 

競馬の馬がつけてる「ブリンカー」。

あれみたいに、視界を狭めるのはどうだろうか?高所で余計な情報を目に入れないようにしたらどうかしら?と考えた。

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ブリンカー   Chabata_k(Japan) /Link
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本気で試作

しかし、これは視界が悪すぎるのと見た目的な問題と、根本的な解決にならないという理由でボツに。

 

最後に

 

というわけで、前回ブログ以降の試行錯誤を書きました。

結局、「高所恐怖症」は精神的なものなので、自分の心の持ちようを変えるしかないのですが、それができれば苦労はしないっていう。

やはり、悪い想像をしないように誰かと一緒に行ってもらうのが1番のおすすめ。

私は構造物の本のおかげもあり、-100%だったものが-80%位に改善したように思っています。そんな少しの回復だって嬉しい。

今年(2021年)、長くて大きな橋を何とか渡ることもできました。来年・再来年も継続して慣れさせようと思っています

橋の真ん中で周囲を見渡す、これも今までできなかったことですが、今年初めてできて驚いた。

慣らすしかないなぁ、なのですが、こうしてブログに書いたことで、同じ「高所恐怖症」仲間の方がいるということも分かり、私も力をもらいました!

どうもありがとう!と思いながら、以上、『高所恐怖症克服中②・その後編』でした!ではまた!

「レゴブロックみたいな五重塔が名古屋・栄に出現?」(写真を撮りに行ってきました!)

先日、地元のTV局で「名古屋に五重塔が出現⁉」というニュースを取り上げていました。

それがレゴブロックのような可愛さだったので、早速写真を撮りに行ってきました。

名古屋・栄に「五重塔が出現⁉

 

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愛知県美術館」の屋上庭園から

水色の覆いを被せられて、まるでレゴみたいなシルエットが可愛いです。

この正体は、NTTコミュニケーションズのビルに建つ鉄塔

ふだんは、「赤白」のカラーということでした。そうだったけ?

現在、20年に1度の塗り替え作業中12月末までということで、このような姿なのだとか。

もっといいアングル、時間帯があるはずということで、栄に出かけるついでに撮っています。

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錦通り(栄)から

これは本当に「名古屋が古都に⁉」といういい感じの出来。でも、もっともっと撮りたい。

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名古屋JPタワーズ15Fより

今度は少し離れてみました(離れすぎ?)。本当はもっと日没時間が撮りたいところ。

まだまだ撮りたいので、時間を変え場所を変え、年内がんばりたいと思っています。

もし、ベストショットが撮れたら、またここに上げようと思います。

 

【12/3追記】

と書いて、12/2、覆いが取れたというニュースが流れ、今日見に行ったところ、赤白のシマシマに戻っていました。

(あれっ?12月末までじゃぁ)と思いつつ、「12月末まで」と書いたことを訂正し、お詫びします。申し訳ありませんでした。

結局、夕景の写真も撮れず終い(悲)

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2020年12月3日

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近くに建つNTTドコモ名古屋ビルもいいんだけど

ということで、わずかの間出現した『名古屋の五重塔』でした。今度は、20年後の出現となるのでしょう(覚えてられるかな?)。以上です!ではまた!

【中山道】奈良井宿と難所・鳥居峠(『初恋』(島崎藤村)の前にさしたる花櫛ってどんな櫛?)

前回ブログからの続きです。中山道の「藪原やぶはら宿」から鳥居峠を経由し、「奈良井ならい宿」、そして漆器の町「木曽平沢ひらさわ」を歩きます。

中山道・難所の1つ・鳥居峠を越えて、伝建地区・奈良井宿の美しい町並みを満喫できるルートで、天気が良ければ、御嶽山おんたけさんも望むことができます。

butuyokuko.hatenablog.com

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①「藪原宿

 

JRの藪原駅で降りて、町並みを散策していきます。

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JR藪原駅

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早朝の藪原宿 旧道の雰囲気が残る

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宿の名物だった「お六ろく櫛」のお店

やがて、街道は藪原を抜けて、山の中へと入っていきます。藪原宿から奈良井宿までは約8㎞、所要時間は3時間30分位。整備された歩きやすい道です。

 

鳥居峠

 

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峠の手前(測候所跡の休憩所から)

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丸山公園の辺り 上に行くと「御嶽おんたけ遥拝所」がある

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中山道69次藪原宿」の浮世絵の説明 

この辺りがこの浮世絵のモデルになった場所といいますが、こんな見晴らしは今のこの場所からは、望めません。

昔の鳥居峠は、中山道3大難所の1つだであったといいますが*1、今は相当整備されていて、谷沿いの道の恐怖も昔とは雲泥の差なのかもしれません。

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御嶽遥拝所

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神社裏手からは、天気がよければ御嶽山が望める

晴れていたので、当然見えると思った御嶽山ですが、この日はかなり暖かく、あいにく見ることはできませんでした。

また、この神社の裏手には神社に奉納された石碑群があり、御嶽山への厚い信仰を感じることもできます。

この御嶽遥拝所まできたら、鳥居峠はもうすぐそこ。

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鳥居峠(1197m)に建つ石碑 

さて、この石碑の建つ鳥居峠は見晴らしのいい場所ではなく、道沿いにあり、あれ?ここかという感じ。

この鳥居峠分水嶺となり、北側に流れたものは奈良井川となり、犀川千曲川信濃川という錚々たる大河となり、日本海へ。また南側へ流れたものは木曽川となり太平洋へ流れます

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「峠の茶屋の跡」(鳥居峠の下)

昔の「峠の茶屋跡」には今は休憩所が建てられ、分水嶺からの水が流れています。

この辺り、菊池寛の小説『恩讐の彼方にの舞台で、主人公は夫婦で「峠の茶屋」を営んでいるのですが、裏稼業で人斬り強盗をしているというすごい設定でした。

この峠の茶屋跡からさらに下ると、葬沢です。

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葬沢 向こう側は崖になっている

葬沢ほうむりさわ」、すごい名前ですが、説明板には「1582年、木曽義昌武田勝頼の兵2000を迎撃し、勝利を収めた古戦場跡。武田方の死者約500人が谷を埋めたことからこの名がついた」とありました。

 16C、地元の木曽氏*2と隣国の武田氏は複数回戦い、この鳥居峠美濃と信濃の国にあるため、中世から何度も戦闘の場となったのだそうです。

 1582年2月の戦い甲州征伐)では、織田軍の加勢もあり、武田軍が敗れます。*3

そうした攻防の舞台にしては、なかなかの山中。「ほんとにこんなところで戦ったの?」と思いながら、さらに山道を下ります。

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石畳の風情のある場所も

③「奈良井宿

 

さて、坂を降りきるとそこには「奈良井宿」が広がっており、壮観です。昔の人も宿場を目にしてほっとしたに違いありません。

宿場入り口には、しずめ神社という朱塗りの綺麗な神社が見え、出迎えてくれる感も。

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鎮神社の立派な大木

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奈良井らしい風景

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鎮神社前

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鎮神社の前から 宿場町が広がる

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かっては「奈良井千軒」といわれるほど繁盛した宿場であったという

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「上問屋資料館」(この日は開館しておらず。不定休?)

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江戸時代からの旅籠の伊勢屋さん(宿泊できる)

 

④『初恋』に出てくる「花櫛」とは

 

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「中村邸」(中を見学できる)

この「中村邸」は元櫛問屋で、かっては塗櫛の商いをしていたのだとか。櫛のコレクションや櫛の乾燥に使った櫛専用の蔵などが面白いです。

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綺麗な櫛がズラリ 模様も細かく美しい

こんな宝飾品みたいな櫛を貰ったら、さぞ心ときめいたことでしょう。

時代劇で櫛やかんざしをもらって喜ぶ女性の姿を見ることがありますが、その気持ちが分かるような気がしました。*4

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花櫛の説明

実物は無かったのですが、花櫛はなぐしの写真を見ることができました。*5

島崎藤村初恋にある花櫛ってこれか 

前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり」の一節ですが、花櫛の意味はよく分らないものの「花のようにきれいな櫛」のニュアンスくらいかと思っていました。

これは可愛いつまみ細工のお花がついていて、少し揺れるしかけのよう。

なるほど。この花飾りに負けないくらいの本当に年若い女の子がつけるものということが分かり、何だかすっきりしとました。

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「櫛の蔵」から見える山

また、この中村邸の「櫛の蔵」からみえる景色も素晴らしいもので、山が目の前にドーンと。

これがお庭の借景というのもすごい(おすすめは紅葉の季節とのこと)

中村邸

開館時間:9時-17時(4月-11月)、9時-16時(12月-3月)

休館日:無休(4月-11月)、月曜(12月-3月) 

入館料:300円 

花櫛にたいへん感動したところで、「奈良井宿」を後にします。少し先の漆器の町・木曽平沢まで足を伸ばして、「中山道」の旅もおしまいです。

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登録有形文化財「丸山漆器店」(1961) 大谷石製の石蔵

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奈良井川の道 水も綺麗山も綺麗

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木曽平沢の町(漆器屋さんが並ぶ)

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「木曽くらしの工芸館」ではお土産を買うこともできる

【所在】長野県塩尻市木曽平沢2272−7 

【営業時間】9-16時 【定休日】月

 

最後に

 

ということで、中山道鳥居峠越などを中心に紹介しました。奈良井宿は例年、外国人観光客が多いのですが、今年はいつもより静かに紅葉を楽しめそうです。

山家らしい素朴な食事、歴史、町並み。何より美しい山と川。何度も訪れたくなる魅力的な場所ということで、中山道奈良井宿と難所・鳥居峠の紹介でした!以上です。ではまた!

*1:あとの2つは碓井峠、和田峠

*2:木曽谷きそだにを支配した国人領主

*3:織田軍の木曽谷からの侵攻を止められなかった武田家は、この翌月、滅亡。

*4:ちなみに、隣りの「藪原宿」では、塗櫛でなくつげの櫛(お六櫛)が有名でしたが、「昭和40年代になってプラスチック製に押され衰退した」という説明があり、塗櫛の方はさらに衰退時期が早かったかもしれません。

*5:「鎮神社」横の楢川ならかわ歴史民俗資料館でも花櫛の説明を見ることができます。

「高所恐怖症」克服中(年々ひどくなる、橋や歩道橋が渡れない、山道に足がすくむ、慣れるしかないというけれど)

高所恐怖症(または癖)」で悩んでいる方、いないでしょうか?という私もその1人。小さい頃からその気はあったものの、年々ひどくなり橋や歩道橋すら怖くて渡れなくなってきました。

私の症状と若干の解決法を書いていきます。

①小さい頃から苦手意識はあった

 

考えてみると、小学生くらいは高さに対して苦手意識はあったものの今ほどではありませんでした。

ジャングルジムの上が苦手、遊園地のジェットコースター・ゴンドラも苦手な子供でした(なので、あまり乗らなかった)

でも当時は、今ではもう信じられないことですが、名古屋TV塔の外階段を登ることもできました。

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赤い部分の外階段を登ることができた。 Tomio344456/Link

 

②大人になって

 

(人より)苦手意識はありましたが、高いから怖いので止めようはなく足がすくむとかドキドキすることはあっても、まだどうにかなっていました(若かったせい?)

この後出てくる歩道橋、橋、片側が崖の山道もとりあえず大丈夫でした。

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「谷瀬の吊り橋」(奈良県)にも行こうとしていたくらい苦手意識は今より薄かった Nkns - Nkns /Link

登山の真似事をしていたのもこの頃。立山富山県)に登れたことに気をよくし、富士山にもいつかは登りたいなぁ、と考える位でした。

 

③ここ数年で悪化

 

こうしてみると、ずっとその気はあったのですが、それがここにきて突然悪化したという感じ。

今までは何とかなっていた歩道橋片側が崖の山道にももの凄い恐怖を感じるようになりました。

こうした「高さ」のある場所に行くと、「橋が裂けて落ちる」「山の麓まで転がって落ちていく」「頭をうって死ぬという妙な想像をしてしまい、心臓がバクバク・手に汗が出てきて、もう怖くて怖くて、立ってはいられなくなるのです。

怖い怖い、という気持ちが体に影響を与えるのか、腰が抜け、まっすぐ歩くこともできず、バランスを取れなくなります。

例えば「歩道橋」ですが、高さに加えて下を通り抜ける車がビュンビュンしているのがまた怖いのです(特にトラックやダンプ)

橋の下を流れる川の流れにも恐怖を感じてしまいます

そんなに怖いなら行かなきゃいいのにという意見もあるかと思うのですが、あちこちとでかけることは楽しみなのでそれは継続したいのです。

そうして行ってみると、やっぱり橋だの歩道橋だのが出てきて、(うわぁ)となるわけです。*1

 

④「濃尾大橋」が怖すぎる

 

先日、木曽川にかかる濃尾大橋(のうびおおはし・777m)を渡る機会がありました。旧街道を歩いている途中で、どうしてもここで渡る必要があります。

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横から見てもものすごく長い濃尾大橋

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同じく濃尾大橋 Alpsdake  /Link

過去に何回か渡ったはず。でも、今は、です。

橋の高さと長さ橋を渡っていく車も怖い

対岸はものすごく遠くて、数m歩いただけで「あぁムリだ」と思い、引き返してしまいした。

でも「ここで渡らないとまるで意味がなくなる」とも思い、橋のたもとで10秒くらい、岸の方を向いて目をつぶりました。「高所恐怖症」であっても、10分くらいじっとしていることで高さに慣れます*2

でも、こんな橋のたもとに10分も立たれたら邪魔だし、不審に思われてしまいます。

全く恐怖に慣れないまま、風景は一切見ず、対岸の到着点一点だけ見て、時々目をつぶりながら、歩くことにしました

その間も「橋がぱっくり割れて落ちていくものすごい恐怖」が繰り返し襲い、心臓がバクバクし、まっすぐ歩けない恐慌状態でした。

この時、対岸から行き違った人がいたのですが、彼らが漕ぐ自転車が私の目には希望の灯のようにみえ、

「橋の上を自転車で渡れるなんてなんてすごい人なんだ!」という尊敬の眼差しで見ていたことを彼らはよもや知らないでしょう。

あまりに怖いので、試しに「お父さん」と念仏のようにつぶやいてみます。*3

ブツブツ効果は少しはあったようで、今度、橋を渡る時には使えるかもしれません。*4

そんなわけで、全く生きた心地がしないまま、なんとか渡ることができましたが、決して克服とは言えず、怖いのは相変わらずという。

ちなみにこの木曽三川きそさんせん(木曽川長良川揖斐川)にかかる橋はどれも長大で、ここ数年は死ぬ気で渡っています。

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長良ながら大橋(384m。長良川にかかる) Monami /Link 

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揖斐いび大橋(384m。揖斐川にかかる) Alpsdake /Link

木曽三川ではありませんが、「衣浦きぬうら大橋」(半田市高浜市)なども長大で、交通量も多く、死ぬかと思った。

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衣浦きぬうら大橋(約410m) Jihara19 /Link

 

最後に

 

「高所恐怖症(また癖)」の克服には、慣れることと書いてあります。高い場所に繰り返し慣れさせることで、脳がここは安全なんだと認識するというのです。

確かに、ありえない想像をして(橋が落ちるなど)私は勝手に怖がっているだけなのです。

飛行機が怖いという話もよく耳にしますが、これも想像恐怖で、ほとんど起こらない状況を想像して怖がっているわけで。

なので、何も考えないバカになる必要があるかなと思うのですが、1度そういう想像恐怖脳になってしまうと、なかなか難しいのです。

以前、「私は体重が2kg(だから橋は落ちない)」「私はバカ(だから余計なことを考えず橋が渡れる)」など唱えながら、歩道橋を渡るやり方を試したこともありましたが、これもダメだった。

現在、何かいい解決法はないのだろうか、と高所恐怖症のサイトを見たりしているのですが、まだこれという解決法にいきあたっていません。*5

また、「高所恐怖症」についての体験談を書いてる人も少ないと感じていたので、今回のブログとなりました。

「これさえやれば!」という解決案を提示できるとほんとうにいいのですが、また探して、効果があったものは上げていきたいと考えています。

ということで、『高所恐怖症・克服中年々ひどくなる・橋や歩道橋が渡れない)』でした!以上です、ではまた!

下記では、その後の克服の試行錯誤を書いています。

butuyokuko.hatenablog.com

*1:橋や歩道橋はショートカットなので、そこで渡らないと大変な迂回に。回りを見渡して、下から行ける道があれば、遠回りでもそちらを選んだりしている。

*2:以前、山の中でやっていたのですが、高度を感じて進退きわまったら、とりあえず動かず、しばらくそこでじっとしているのがいいのです。すると本当に少し落ち着いてきます。

*3:「お父さん」じゃなくても「神様」でも何でもいいけど。

*4:そういえば登山中、「難所」に出くわした際、「大丈夫」と繰り返しつぶやいていますが、これも一定の効果がある。

*5:そうした記事を書いてる人も別に高所恐怖症ではないようで、どこか他人事な感じがする。

断崖絶壁の要塞の城「長篠城」(豊川が守る、川の合流地点に建つ城)(愛知県・新城市)

前回ブログの続きで、今回は豊川とよかわが守る、天然の要害の城「長篠ながしの」について。

その他、「鳥居強右衛門すねえもん」のエピソード、「長篠城址史跡保存館」などについて載せています。

butuyokuko.hatenablog.com

butuyokuko.hatenablog.com

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①「長篠城」について

 

1508年、菅沼すがぬま氏によって築城されました(この時は今川方)。やがて、徳川氏に従います(武田方の時期もあり)

1575年の「長篠の戦い」当時は、徳川方の城で、城主は奥平氏

この「長篠城」は、東西・南を断崖絶壁に守られた天然の要害の城で、北側だけ平たんで守りが弱いため、堀を2重にし(川をせき止めた深い水堀)、土塁をもうけてカバーをしていました。

 

②「長篠城」攻防戦

 

1575年、三河侵攻を開始した武田勝頼の軍(1.5.万)は、この長篠城(守備500)を攻めます。

5/8、戦闘が始まります。武田軍は竹筏で上陸し、断崖絶壁を登ろうとして石を落とされたり、横穴掘りをしてみたり、兵糧蔵を破壊したりしています。

そうこうするうちに、「鳥居強右衛門の脱出行」(後述)があり、徳川・織田の援軍も到着します。

徳川・織田の連合軍は少し離れた設楽原したらがはらに陣地を構築。

5/21、その設楽原で「長篠の戦い」が開戦、という流れになります。

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長篠城周辺 右にある「鳶ケ巣山とびがすやま砦」をはじめ5つの砦が武田軍の陣地

引用:『鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台』p45-46より

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長篠城跡からみえる「砦跡」(どれがどれなのか)

 

③豊川の断崖に建つ城

 

さて、この長篠城が「日本100名城」の1つと聞いても、「長篠城址史跡保存館」の写真ののどかなイメージもあり、全然想像できていませんでした。

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長篠城跡に建つ「長篠城址史跡保存館」

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       三角に突き出た場所に建つ長篠城 Link

左側が豊川(寒狭かんさ川)、右側が宇連うれで、その合流地点の断崖に城はあります。川の流れはけっこう早く感じます。

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引用:『ガイド長篠の戦い』(長篠城址史跡保存館)p3より

この長篠城跡が体感できるのは、城跡の南側で、

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現在は原っぱの本丸跡(写真は北を見ている)

この本丸の南側を、下にある川を見下ろしたいのですが、木々にさえぎられて全く見えません。残念!

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西側(本丸の)  「不忍の滝」という滝もある

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南側(本丸跡より)

木々で状況が分からないけれど、フェンスの向こうは断崖絶壁のよう。それは、聞こえてくるの川音からも察せられるのですが、立地がまるで分からず、ちょっと怖い。

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下は川

対岸もまるで見えませんが、「長篠の戦い」で有名になった鳥居強右衛門すねえもんの磔にされた場所や碑があるようす。

また、城の北側には当時の土居が残り、1575年当時はこの堀に水を入れていたといいます。

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城の北側

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掘の跡がよく残る

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説明板

城の外に出て、城を眺めてみます。城の北側は平らで、南の険しさがウソみたいです。

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北西から城跡をみる

また、城のすぐそばに「中央構造線」の露頭ろとうがあるというので、見にいってみました。

しかし、途中の看板に「崩落のため行けません」とあり断念(ほんとだ!何か崩れてる!)

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豊川の露頭のふきん

また、この露頭の側には武田四天王の1人・馬場信房(62)のお墓もあります。

長篠の戦い」の殿しんがり線で戦死したといい、設楽原の決戦場からは少し離れた場所です。

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馬場信房のお墓

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説明板

 

長篠城籠城戦のハイライト?「鳥居強右衛門」のエピソード

 

鳥居強右衛門(36)は、長篠城主・奥平おくだいら氏の家臣(陪臣?)で、*1

1575年、長篠城が武田の大軍に包囲された時、徳川氏に援軍を求めるため、家康や信長に危機を知らせに行った足軽であった、といいます。

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磔にされた鳥居強右衛門の絵

強右衛門は、深夜に「野牛廓の不浄口(下水口)から脱出。豊川を4km泳ぎ、下流地点で上陸したとあります。*2

真の闇の中、敵に悟られないようにあの断崖絶壁を降り、泳いだ、というのはにわかには信じられません。しかも川は急流で、4kmも果たして泳げるものなのか?岩もあるし、ですが。

こうして見事脱出した強右衛門は、首尾よく家康・信長に会うことができます。

この時点で、もう援軍が長篠に向かっていたので、強右衛門はこれを城内の仲間に伝えるべく、また長篠城に引き返します。

そして、城内に戻ろうとしているところを武田方に捕らえられ、奥平方という素性も暴かれます。

武田方の提案は、城内に向かって「援軍は来ない諦めて開城しろ」と叫べば、武田の家臣として厚遇するというものでした。

この時、強右衛門の取った行動は、「あと2-3日で援軍がくるそれまで持ちこたえろ!」と城内に絶叫する真逆のものであったといいます。

それを聞いた武田勝頼(30)は激怒し、部下に磔にさせたか切り殺した、と言われています。

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  逆磔バージョン(諸説あり) Otiai Saheiji Michihisa /Link
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新昌寺(強右衛門のお墓がある)(新城市有海あるみ)

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対岸の篠場野しのばの
強右衛門が捕まり、磔刑にされたところという

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説明板

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磔刑碑(大正元年建立)

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磔刑碑の背後 木々で川や城は見えない

 

⑤「長篠城址史跡保存館」

 

さて、長篠城址史跡保存館では、長篠の戦いに関連する展示を見ることができるのですが、1番の目玉はこれ。

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血染めの「陣太鼓」 

籠城時、奥平軍が使ったもので、奥平家の家宝となっています。太鼓の下の部分にみえる血の色が鮮やかなのに驚きます。

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火縄銃や畳具足の展示

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陣中水呑み 面白い形をしています

長篠城址史跡保存館
【開館時間】9時-17時  【休館日】火曜  

【入館料】220円 【住所】愛知県新城市長篠市場22-1

 

最後に

 

ということで、天然の要塞・長篠城を見てきました。

東西・南からの侵入はたいへん厳しい反面、北側は同じ城か?と思うほどの平たんさで驚きました(だいぶ壊されているそうですが)

信玄が攻めた「野田城」、後の「新城しんしろ城」やその他の東三河の城の多くが、豊川*3河岸段丘上に作られ守りを固めていました

中でも、もっとも急峻な立地に作られたのがこの’長篠城’で、武田の侵攻をはばんだのは、豊川の作った地形のおかげともいえそうで、改めて豊川という大河の流れにも感心した今回でした。

というわけで、『断崖絶壁の要塞の城・長篠城でした!以上です、ではまた!

 

下記ブログでは、豊川河岸段丘についてふれています。

butuyokuko.hatenablog.com

*1:強右衛門の話は、『信長公記』には見られず、後続の『甫庵信長記』『三河物語(両方とも江戸時代初期成立)などでみられるお話。

*2:「野牛廓」は、本丸の東側。

*3:設楽郡設楽町が源頭。総延長77km。豊橋平野を潤す一級河川

芥川龍之介とイケメンの親友。そして、龍之介の三男と『ゴジラ』との関係【芥川也寸志の音楽】

芥川也寸志やすし(1925-1989)という作曲家をご存じでしょうか?芥川龍之介(1892-1927)の三男で、多くの人に知られる曲を残した名作曲家さんです。

心が揺さぶられる芥川也寸志の曲と、也寸志がその名をもらった芥川のイケメンの畏友・恒藤恭つねとうきょう

そして、也寸志が慕った作曲家・伊福部昭いふくべあきらについて書きたいと思います。

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 芥川也寸志 /Link

芥川也寸志の曲

 

まずはこの曲。『八墓村』(1977)に使用された曲ですが、日本の風景の映像とあいまって、日本の地方、農村、歴史、民俗を連想させるにぴったりの曲だなぁと思っています。

聞くたびに、心の中を風が吹きすさぶような気持ちに。


芥川也寸志の日本

そして、もう一曲。こちらも映画八甲田山の曲(1977)として作曲されました。

『八墓村』と通じるところのある曲で、本来の芥川也寸志の曲調は快活なものが多いとあるのですが、映画に合わせてこういう暗めの曲調なのでしょうか。

こちらも同じく心を揺さぶられる曲です。


芥川也寸志の日本

也寸志の曲で、恐らく最も有名で一番耳にしたことがある曲はこれ。


TV時代劇「赤穂浪士」音楽:芥川也寸志 (1964年)

昔は年末になると『赤穂浪士』が放送されており、この曲の中毒性もあり赤穂浪士』を見ていたものですが、まさかこの曲が芥川龍之介の息子さんの曲とは、その時は思いもよりませんでした。*1

 

②芥川の親友・恒藤恭

 

さて、也寸志がその名前をもらうことになった芥川の親友・恒藤(井川)つねとうきょう(1888-1967)です。

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一高時代の写真  右が恒藤恭(『新潮日本文学アルバム』より)

昔、この写真を見て2人のイケメンぶりにたいへん驚いたことを憶えています。

エリートでイケメン。後年、文豪と学者として名を成す若い2人がとても凛々しい写真です。

一高時代の旧友には菊池寛をはじめ、後に文筆で有名になる人ばかりなのですが、一高時代の3年間で、芥川が最も愛した級友が恒藤恭でした。

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後年、恒藤恭は『旧友 芥川龍之介』(S24)という本を出版している

一高卒業時、芥川が恒藤恭に送った手紙を今回、初めて読みました。

「君は自分が君を尊敬してゐることはしつてゐるだらうと思ふ。けれども自分が君を如何に愛してゐるかは知らないかもしれないと思ふ

「時として惡み、時としては争ったが、矢張三年間一高にゐた間に一番愛してゐたのは君だったと思ふ。」

引用:恒藤恭『旧友 芥川龍之介』大正2年7月の手紙より 

この2人、性格は違うものの、寮の同室で生活をし、お互いを尊敬しあう仲だったのです。

もともと文学に興味があった恒藤恭ですが、芥川らの才能を目にし、この後、京大法科に転じ、法哲学として有名になります。2人の交友は、芥川の死まで続きます。

3男・也寸志の名は、この秀才・恒藤恭から取られました。*2

 

③也寸志の作曲の先生・伊福部昭

 

芥川が自殺した時、也寸志はまだ2歳くらい。父芥川と同じく、音楽が大好きで、やがて作曲家を心ざします。

そして、入学した音楽学校の作曲科の先生が伊福部昭いふくべあきら(1914-2006)でした。

伊福部を音楽学校に招いたのが、芥川龍之介の知り合いだったりと、巡り合わせも興味深く感じます。

伊福部昭といえば、ゴジラ』のテーマの作曲家ということで有名ですが、也寸志はこの伊福部を慕い、たいへん影響を受けたといいます。

                               

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  『ゴジラ』(1954) Toho Company Ltd.© 1954  /Link

2人は師弟ということで、2人の音楽には何か似た匂いを感じます。

ゴジラのテーマ』とともに伊福部の宇宙大戦争マーチ』(1959)も名曲ですが、疾走感やドキドキ感や音に也寸志と共通なものを感じる気がします。


宇宙大戦争マーチ Battle in Outer Space

 

最後に

 

ということで、芥川龍之介の周りの人を見ていきました。明治から昭和の文人の交流を見ていくと、この人とこの人も知り合いなのかとか、意外と交流があるんだなと思うことがあります。

楽家も仕事柄、小説家、映画監督、俳優と交遊があることが分かります。

也寸志自身も短い間ですが、女優の「草笛光子」さんと結婚していました。

そうした人間関係や、その作品が作られた当時の状況を想像しながら、読んだり聞いたりすると、よりいっそうその作品に愛着を感じます

今回は、芥川龍之介から『ゴジラ』までをつなげて連想してみました。

ということで、芥川龍之介と親友と、三男とゴジラの関係』でした!以上です、ではまた!

*1:youtubeのコメントの指摘「まさにボレロ」は、「なるほど」と思いました。

*2:長男・ひろしは、菊池寛の名から取られ、後年、イケメン俳優として有名に。次男・隆も親友の名前から取られたが、第2次大戦で戦没している。

【木曽路のお土産】創作栗きんとん「栗苞」「七笑」「漆ガラス」「苑工房のアクセサリー」など

秋に行きたくなる場所、それが中山道木曽路きそじ

山と渓流と宿場町の古い建物。人の絶えた、少し寂しい風情が魅力的な場所です。今回は買ってきたお土産の写真をのせて、木曽路の産物の紹介したいと思います。

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中山道木曽路

 

木曽路とは、中山道の一部区間*1 岐阜と長野の間の木曽谷きそだに」の道を特にこう呼びます。

岐阜県中津川市の辺り(馬籠まごめ宿)より、左右が山に囲まれた木曽谷の中に入り、長野県塩尻市贄川にえかわ宿)に出るまで谷が続きます。産物は、山中なので山のものが多いです。

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奈良井ならい宿

①栗きんとん

 

秋に売られる栗きんとんは名古屋の方でも大人気。

有名な「すや中津川市川上屋(同)もおいしいですが、最近いいなと思うのが「松月堂」さん(同)創作栗きんとん

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創作栗きんとん「栗苞くりづつみ」(1252円・4個入)

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高級感のある包装

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葛くずに包まれた栗きんとん

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2層になっている

「栗きんとん」は美味しいけど、味が単調に感じることも。それをぷるぷるの葛で包むことで味や食感に変化が出て、とても美味しく感じます。

少し冷やして食べるため、さっぱりとするのも良い。

栗きんとんを買うには

 

どこでも買えますが、津川駅の「にぎわい特産館」は種類がそろっており、バラ買いができる。

各店舗の栗きんとんの食べ比べができておすすめ。

【所在】岐阜県中津川市栄町1-1にぎわいプラザ

【営業時間】8時30分-18時 

また、「恵那市観光物産館恵那テラス」でも栗きんとん食べ比べセットが販売されている。

【所在】岐阜県恵那市大井町286−25 

【営業時間】9-18時 

 

②ごへーもち

 

五平餅木曽路名物。わらじ型の五平餅もありますが、木曽路では団子型に作るようで、中津川の「喜楽」さんの五平餅を買いました。

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喜楽五平餅 (477円・3本入り)

津川駅キヨスクや駅前にお店があり、購入できる。

 

 ③朴葉寿司

 

ほおの葉って形がおもしろくて何だかいいものです。その朴の葉に包まれたお寿司はとても山家な趣き。

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朴葉ほおば寿司(650円・4個入)

こちらは、「寿司処ほたる」さんというお店のもので、同じく「にぎわい特産館」(中津川駅前)で購入。

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しいたけ、シーチキン、ふき、紅ショウガなど

ちなみに後の2個は「穴子」「海老」で、味が全部違うのもうれしい。朴葉寿司には、山菜・魚などこうした好きな具材を入れるのだそうです。

 

④「七笑」【七笑酒造】

 

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(右)純米吟醸 670円(300ml) (手前)「中乗さん」のおちょこ

木曽のお酒といえば、「七笑」「木曽のかけはし」「中乗なかのりさん」が代表的。中でも好きなのは「七笑ななわらい」というお酒。

’七笑’というこの名前、とっても可愛いと思い、調べてみると、

もともと木曽駒高原入り口にある集落の地名のようで、鎌倉時代木曾義仲(きそよしなか・1154-1184)がここで少年時代を過ごしたというお話があるのだとか。

今回買った純米吟醸(アルコール度数15度。日本酒度±0)は、優しくて旨味のある美味しいお酒でした。

個人的には辛口がいいのですが、「七笑」は甘みを感じてもイヤじゃないと思う、美味しいお酒。

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七笑酒造さんグッズ 巾着、おちょこ、マッチ

【所在】長野県木曽郡木曽町福島5135

七笑酒造株式会社|信州木曽の地酒 銘酒「七笑」

本店では、上の巾着のようなグッズを買うこともできます。

 

⑤漆ガラス【丸嘉小坂漆器店】

 

木曽谷で取れる木材を使った漆器や櫛も有名です。今回、初めて見たのが「漆ガラス」というもの。

「漆ガラスってなんだろう?」とお店の方に尋ねると、ガラスに漆を塗ったもので、ガラスに塗った漆はふつう剥がれてしまうのですが、この剥がれないところに秘密があるということでした。

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金魚鉢みたいな漆ガラスの皿

お店で使い方を聞いてみると、「おひたしをのせたり‥」とのアドバイスをもらいました。なるほど。スタイリッシュなおひたしでも作ろうかな。

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漆は後ろ側に塗る 表面には漆の色が透けてみえる

後ろ側に塗るので表はガラス材。ナイフなどを使っても漆には傷がつかず、長持ちするということでした。
買える場所は「丸嘉小坂漆器店」(まるよしこさか)、「木曽くらしの工芸館」など。

今回のは「すいとうよ」(透いてるよ。好いてるよ。の意味)というシリーズ。

 

⑥「苑工房」さんのアクセサリー

 

苑工房えんこうぼう」さんは岡山県倉敷市にあるお店ですが、そのギャラリーが奈良井宿にもあり、お店では自然のお花や実、葉っぱのアクセサリーを買うことができます。

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蔦の葉っぱピアス(千数百円ほど)

こちらも秘密の工法を施してあるそうで、固く丈夫で色も美しいです。また、自然の素材を使っているので、同じ商品でも微妙に違い、選ぶのに悩んでしまいます。

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少しづつふえていった苑工房さんのアクセサリ

退色はやはりしていきますが、数年は大丈夫。

(保管にもよる。少しくらい色あせてもそれはそれで。)

奈良井にあるお店は「ギャラリー パウザ・ディ・クローマ」といい、お店が倉敷となぜ奈良井なのか?は長年の疑問(両方とも観光地だからかな?)

【所在】長野県塩尻市奈良井585

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ギャラリー パウザ・ディ・クローマ

 

⑦ その他

 

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ほおずきストラップ(400円)

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和ぐるみクッキー(780円)

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他に「栃の実入り」「アーモンド入り」などもある

こうしたお土産は、奈良井宿の中のお土産屋、木曽くらしの工芸館などで買うことができます。

 

ということで、秋に訪れたくなる木曽路のお土産を紹介しました。他にも、そば、お六櫛、ひのき製品、からすみ(お菓子)など、まだまだありますが、今回は以上です!ではまた!

下記ブログでは、奈良井宿を訪問しています。

butuyokuko.hatenablog.com

 

*1:wikiには、中山道=木曽街道=木曽路とも書かれているが。

「長篠の戦い②」(両軍の距離が近すぎる。兵力差もあるのに戦った理由がよくわからない)

前回ブログ、「長篠の戦い①」の続きです。復元された馬防柵決戦場跡激戦地戦死した山県昌景やまがたまさかげのお墓などを見て歩いています。

butuyokuko.hatenablog.com

1575年5月、織田・徳川連3.8万人、武田軍1.5万人(の勢力の一部)が設楽原で激突しました。*1

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JR・三河東郷駅前の説明板

(少し見づらいですが)東側に武田軍

馬場、真田、穴山梅雪あなやまばいせつ、土屋、内藤、小幡、甘利あまり、山県、小山田の名が見えます。

西側が連合軍で、上の方が織田軍(羽柴、水野、佐久間さくま、丹羽、滝川)

下に徳川軍(石川、本多、榊原、大須賀)

織田信長の本陣は、織田軍の後方です。

 

「馬防柵」と決戦場跡

 

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馬防柵(連合軍陣地側)

奥の山が武田軍の陣地ですが、やはり、近いっ近すぎる(数百m?) 

昔の戦闘って、本当に彼我の距離だなと思うのですが、考えてみれば、暴走族の抗争だって飛び道具もないし、お互いがしゃべれるくらいの距離。それよりはもうちょっと距離とったかんじ?

さて、奥の鉄塔の辺りの高台が、武田勝頼の本陣才の神」です。

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馬防柵

連合軍は、連吾川れんご沿いに2㎞・3重の柵を構築したといいますが、正直、えぇ、ここに3重に柵を?と思う狭さです。

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現在の連吾川

また両軍が対峙した川が思った以上の小川でまたまた驚きます(川幅は2-2.5m位)

『甲陽軍艦』には、「馬を十騎も並べて駆けられるところではない」とあり、確かに騎馬隊が一斉突撃ができる場所ではなし。今も凸凹感があり、約450年前も今と同じ田んぼや川だったわけで、地形の変わらなさは驚異です。

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馬防柵

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馬防柵

織田軍と徳川軍の柵がそれぞれ復元してあり、出入口のもうけ方に違いがあるのですが、そうしたことも現地にきて実際見ないと分からないものだなぁと。

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馬房柵の説明板

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こうして敵の来襲を見ていたのか 火縄銃の射程は50-100m

連合軍はを作り、空堀土塁を築き、10003000丁火縄銃を用意。というように用意周到に陣地を構築しています。

信長が岐阜を発つ時、兵に柵木1本と縄をもたせたといい、着々と備えていたことが窺えます。*2

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馬防柵の上の道

当時は木を切り倒したりして整地し、もっと地面が露出していたのかとか、

戦場には陣地を構築するカーン、カーンという設営の音がこだましていたのか?など、想像は尽きません。

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『鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台』47-48pより

上のイラストでみると、設楽原をうずめる人・人・人、すごい人!そして、少し小高いところには大将の陣地があります。

両軍の兵力約5万として、5万というと、下の名古屋ドームのお客さん全員で戦う感じ?

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名古屋ドーム(満員:5万) Wifiusb /Link

 

戦闘と武田軍の崩壊

 

さて、戦闘は早朝から昼過ぎまで、約6-8時間続いたといいます。

武田軍は、隊ごとに主だった者7-8名が馬に乗り、(馬を後にひいた)後続隊が鑓を使って切りこんだとあります。*3

やがて、武田四天王*4の1人で、最左翼にいた山県昌景(やまがたまさかげ54)の戦死により、山県隊が崩れ、内藤、土屋と討ち死にしていきます。

これは真ん中の「親族衆」(勝頼の従兄弟やおじさんなど)の隊が早期退却したため、左右の隊に攻撃が集中してしまったためともいわれます。*5

武田軍としては、寡勢で大軍と戦うため、左右の軍で包囲するような陣形をとりたかったという話も。

 

山県昌景のお墓

 

その山県昌景のお墓が長篠にあります。

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山県昌景のお墓(火縄銃により戦死)

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お墓からは設楽ケ原がよくみえる

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墓の入り口

 

「丸山」と大宮前激戦地

 

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丸山と大宮前激戦地 現在、山のサイズは½に縮小

丸山まるやまは、織田軍と武田軍がこの場所の奪取をめぐり激突した設楽原指折りの激戦地といいます。(場所は「馬防柵」の北数百m)

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この丸山山頂からは、決戦場がよく見えたはず

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丸山の説明板

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丸山付近より 赤◯が馬防柵、青◯は武田軍

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柳田前激戦地 こうした激戦地の石碑が何カ所かある

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武田塚(武田軍左翼の武将のお墓)
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武田塚

 

最後に

 

なぜ、大軍の連合軍(しかも陣地構築万全の)に武田軍がしかけたのか?

信州に退却するとみせかけて、退路で迎え撃った方が良かったのにとか、この場所で戦わないという選択肢はなかったのかと思うのですが、よく分かりません

『甲陽軍艦』では、配下の進言を取り入れたためとの記述も見えます。

慢心だったのか、決着をつけるためにここまで遠征をしてきているので、気持ちがはやったのか。

甲府から長篠まで、諏訪を経由するルートだと約240kmの長距離。)

結局、謎のままなのですが、450年前の話なのに、地形などが良く残り、当時の状況を想像できる「設楽原の古戦場」はたいへんおすすめのスポットだと思いました。

というわけで、以上!長篠の戦い②』でした!ではまた!

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近くに見える不思議な山のギザギザ(何だったのか聞けばよかった)

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馬防柵ポストカード(「設楽原歴史資料館」などで)

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同じく「設楽原歴史資料館」などで

*1:戦力数はwikipediaの数字より。諸説あり。

*2:『ガイド長篠の戦い長篠城址史跡保存館より

*3:『甲陽軍艦』

*4:馬場信房(春)(62)、②内藤昌豊(60)、③山県昌景(54)、④高坂昌信の4人。①②③は「長篠の戦い」で戦死。

*5:ちなみに親族や穴山梅雪甲府まで帰還。戦死を免れている。

【奇祭】女装と「やんちゃ馬」がかなり珍しいお祭り【愛知県瀬戸市・八王寺神社の秋祭り】

例年10月、愛知県瀬戸市八王寺神社では、秋祭りが行われます

この祭りのメインは、「献馬けんば*1ですが、その際、地区の氏子さんたちが女装をし町内を練り歩くという、他にはない珍しい様子を見ることができます。

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馬のお知らせ

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さて2020年はコロナ禍で、各地でお祭りが中止になっていますが、残念ながら、八王子神社のお祭りも中止。昨年までの写真を載せて紹介していきたいと思います。

 

秋祭り(2015年)

 

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2015年は馬のかぶりものが登場

祭りの当日、男性の氏子さんたちは女装をし、集合場所から「飾り馬」を引いて町を練り歩きます。

顔は白塗りで、派手なメイクが施されています(唇の赤がやけに生々しい)。

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町内をぐるぐる

このお祭り、調達してきた女物がそろっておらず、バラバラなのもいいところ。最初見た時は、正体不明の集団の異様さにギョッとなりました。

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献馬する八王子神社に到着

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「広報誌」の躍動感のある写真

「やんちゃ」とは

 

さて、全体をまとめる当番のシマ(地区)を「やんちゃ」と言い、このやんちゃ当番が仮装をする習わしです(女装・乞食のかっこうをする)

八王子神社に献馬をするシマは4つ(現在では3つ)。数年ごとに「やんちゃ当番」が回ってくることになります。

 

なぜ、女装をするのか?

 

説明は2つあり、1つは松原広長(ひろなが・440-1482)という土地の領主にまつわるもの。

この松原広長公、近隣の勢力と争っており、1482年の合戦で大敗をします。そのさい、女装や乞食の恰好に身をやつしその場を逃れることができたという広長公の故事をしのんで、というもの。

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松原塚(松原広長のお墓)(瀬戸市・万徳寺)

もう1つは、かっては東の「猿投さなげ神社」(愛知県豊田市まで献馬をしていたのですが、ある年、峠で馬が言うことを聞かなくなり、仕方なく飾りだけを奉納したことがあったと(または飾りをとった馬だけ奉納した)

それ以降、献馬する若者たちが照れ隠しで田舎臭い化粧をしておどけながら献馬をするようになったと説明されています。

 

秋祭(2018年)

 

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馬は近くの牧場(?)からのレンタル馬

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シマ全てが神社に揃う「馬揃え」は正午ころに行われる

ほぼ毎年みていて、女装にも変化があり、年々コスプレぽくなってきたなという印象も。上の写真には、何だかビジュアルバンドみたいな人もいたり。

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境内をぐるぐる 3周ほど右回りする

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本殿前での記念撮影

この八王子神社、さきほどの松原広長の居城の今村城の跡で、お濠の跡などが残されています。

 

秋祭(2019年)

 

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女装の人に見つめられてドギマギ

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「X」(?)や多国籍やんちゃも出現

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ローウィンと浦島太郎が共存するカオス

 

 最後に

 

というここで、瀬戸市を代表する奇祭 ・八王子神社の「秋祭り」を取り上げました。

名古屋の人も知らない、地元の人だけのお祭りなので、すいててのんびりとお祭りを見することができます。

また、当日は警固隊けごたい*2が空砲を発砲しているので、パンパンとあちこちから空砲が聞こえてくるのも楽しいです。

歴史があり、郷土色豊かで、’武’と’農’が結びついた祭礼。そのうえ、女装までしてくれる、実にありがたいお祭りだな、と毎年楽しみにしています。

個人的には最近のコスプレ傾向はあんまりで、女物のレトロな着物を着流し、おひきずりする、昔ながらのやんちゃが好きなのですが。

いい写真が撮れたら、またアップしようと思いながら、以上、『八王寺神社の秋祭り』でした!ではまた!

*1:飾りつけをした馬を神社に引いて行き、奉納する。

*2:軽トラックの別動隊。砲を積んで発砲しながら移動する。

「長篠の戦い①・設楽原の古戦場」(徳川・織田連合軍と武田軍との距離が近すぎない⁉)(愛知県新城市)

有名な「長篠の戦い」が行われた新城しんしろ設楽原したらがはら古戦場に行ってきました。

飯田線三河東郷とうごう駅で下車し、決戦場復元された馬防柵、「設楽原歴史資料館」、首洗池などを歩いています。

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長篠の戦い

 

長篠の戦い(1575年5月・新暦では6月末-7月上旬頃)は、三河侵攻などを目的とする武田勝頼軍と織田信長・家康連合軍が東三河で激突した戦いで、結果は、連合軍側の勝利となりました。

武田方の宿将の多くが討ち死にし、勝頼は甲府へ逃げ延びますが、この後、武田氏は求心力を失い、衰退していくことになります。

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馬房柵で飾られたJR・三河東郷駅 

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駅から北の首洗い池へ

地形は、北に向かって高くなっていきます。

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竹広たけひろの交差点

写真の交差点の奥に行くと竹広激戦地。この辺りでも戦ったのかなと想像がふくらみますが、ふきんいったいで戦っていたことでしょう。

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首洗い池

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赤いのはよくわからず

さて、「首洗い池」は錦鯉が泳ぐ、少し赤い池で、この赤色、鉄分を多く含む土壌の色なのだとか。池があるのは戦場の南、土地が低くなっているところです。

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設楽原歴史資料館へ続く道 この辺りも全て戦場か

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信玄塚(小塚)

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信玄塚(大塚)

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同じく信玄塚(大塚)

この2つの大きな塚が「信玄塚」で、両軍の死者16000人(?)が葬られているといいます。

信玄塚というネーミングに思わず信玄のお墓かと思ってしまいますが、ではなし。

この塚のすぐ側に、設楽原歴史資料館があります。

 

設楽原歴史資料館

 

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設楽原歴史資料館

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設楽原歴史資料館

【開館時間】9時−17時 【休館日】火曜 

【入館料】330円 【住所】新城市竹広字信玄原552

館の前の銅像は、岩瀬忠震(ただなり・1818-1861)で幕末に「日米修好通商条約」を結んだ1人。*1

(そういえばなんか指さしていますが、何を指さしていたのかな?)

この歴史資料館では、長篠の戦い、火縄銃のコレクション、この岩瀬忠震コーナーなどを見ることができます。

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火縄銃は圧巻の品ぞろえ

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1573年、信玄が攻めた三河・野田のだ城の模型

館内の野田城の模型です。この野田城もここからそんなに遠くない三河の城で、「長篠の戦い」直前のストーリーがあります。

信玄はこの野田城を攻め落とした後、喀血して発病。数か月後に53歳で、亡くなっています(1573年)*2

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南無諏訪大明神の合標

こちらは、敵味方を識別する「合印あいじるし」。

「南無諏訪大明神」とあり、そういえば武田勝頼は、最初、諏訪氏を継ぎ、諏訪勝頼をなのっています。

武田家の4男で他家に出され、武田の家督を継ぐ予定ではなかったといい、だから、武田家をうまくまとめきれていなかったという話も。

さて、館の屋上からは設楽原の古戦場が一望できます。

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屋上

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【赤】織田軍の陣地。白く横に長くみえる馬防柵 奥の山は雁峯山がんぼうさんの山並

上の写真、手前のモコモコした茂みが武田軍の陣地です。織田軍と相当近いです。目視で数百mくらいにみえます(近いっ、近すぎる!)

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復元された馬防柵

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【青】徳川軍の陣地

こちらも手前の茂みが武田軍の陣地になります。

 

後編は、馬防柵決戦地へ向かいます。

ということで、以上、 長篠の戦い①』でした!ではまた!

butuyokuko.hatenablog.com

*1:旗本、幕臣、外交官

*2:喀血から死までが早いため、末期の胃がん食道がんだったのでは?という話も。