『高所恐怖症②』(その後の克服編)
以前ブログで書いた切実な問題「高所恐怖症克服」の続編です。
「橋を渡る」「登山」を克服するため、先回ブログ以降に行ったこと、思ったことなどを書いています。同じような悩みのある高所恐怖症の方に読んでもらえたら嬉しいです。
前回書いて気づいたこと
前回ブログに書いたことで、「勝手に恐怖症になってるだけ」という気づきもありました。
①誰かと一緒にでかけることが1番
私は山でも旅行でも1人で行動していますが、この1人の行動がどうも恐怖・心配をあおっているようだと気づきました。
高所恐怖症があまりひどい場合は、誰かと一緒に行ってもらうことで自分を安心させ、それを繰り返し慣れるというやり方がホントは1番いいのかもしれません。
②「高所恐怖症」はなぜ年々ひどくなるのだろう?
昔はこんなにひどくはなかったのにっ、てね。
やはり年を取ると、経験を重ねた分、色々考え過ぎてしまうことが原因かと。「あの時怖かった」という恐怖経験が心や行動をむしばむよう。
高所克服の改善に役立ったこと
①信用してみる&大木を歩く蟻んこをイメージ
「橋が落ちる・裂ける」「山道が崩れる」「山道で足を踏み外し落ちる」という悪い想像。
結局、私は信じていないわけで。橋の強度も山道の強度も自分自身も。
もう結局信用するしかないんです!
最近は「自分は大木を歩くアリ」であるとイメージ。自分は蟻んこだから大丈夫だと思いこませ、歩道橋などを渡っています。
②構造物の本を読む
これはたまたまですが、『高速ジャンクション&橋梁の鑑賞法』という本を読んだことが、意外と精神を楽にしたという話。
この本には、橋やジャンクションの設計・構造についての説明があるのですが、
橋に反りがある・つり橋が揺れる、なんていうのも強度面を考えて作られているせいとうっすらと分かり、そうした理屈が自分を落ち着かせてくれました。
構造物の設計を知ることが高所恐怖症の軽減につながるなんて、よもや考えもしなかったけど!
でも、私のうすい理解でも気が楽になったのだから、効果はあり(理屈ぽい人にはいいかも?)。
この本を読んで以降、反って作ってある橋をみると「大丈夫だ。あれはすごい考えて作ってくれてる橋だぞ」とか、
太い橋脚をみれば、「すごい荷重に耐えられる設計にしてあるぞ」とか、少し冷静に眺めることができるようになったのはほんと大きい。
大体のところはOKなはず。だから、あとは見るからにダメそうな所(歩道橋の赤錆び、山道の滑りそうな場所)を目視で確認して避けるだけですよ!
②靴を体にあったものに。体幹を鍛える。
これは山での話。トレーニングもしてない私は脚力が弱く、山では常にフラフラ。
足元を安定させるためにも、あまり足にあってなかったトレッキングシューズを新調、トレイル用の靴も購入しました。
もう1つ、これもたまたま買った、姿勢を整える・屋内筋トレ用の「ダイエット・スリッパ」。
これをはくのとはかないのでは、足の使い方がだいぶと違って、多分、以前よりは体幹がよくなった(と思う)。
最初に履いた時はフラフラでまっすぐに立つことも怪しかったのに、今ではどうということもなし。
足元を安定させて、バランス感覚を鍛えることは、自分に秘かに自信をつけさせてくれ、これも効果ありでした。
どうしてもだめな時は「視界にいれない」
でも、どうしてもダメって時もある。あまり無理しない。
怖くて仕方ない時は、山でも橋でも足元だけ見る。橋の下はみない、崖の下はみない。
ただ足元を見てひたすら歩くだけ。
思考錯誤の「ブリンカー・メガネ」
競馬の馬がつけてる「ブリンカー」。
あれみたいに、視界を狭めるのはどうだろうか?高所で余計な情報を目に入れないようにしたらどうかしら?と考えた。
しかし、これは視界が悪すぎるのと見た目的な問題と、根本的な解決にならないという理由でボツに。
最後に
というわけで、前回ブログ以降の試行錯誤を書きました。
結局、「高所恐怖症」は精神的なものなので、自分の心の持ちようを変えるしかないのですが、それができれば苦労はしないっていう。
やはり、悪い想像をしないように誰かと一緒に行ってもらうのが1番のおすすめ。
私は構造物の本のおかげもあり、-100%だったものが-80%位に改善したように思っています。そんな少しの回復だって嬉しい。
今年(2021年)、長くて大きな橋を何とか渡ることもできました。来年・再来年も継続して慣れさせようと思っています。
橋の真ん中で周囲を見渡す、これも今までできなかったことですが、今年初めてできて驚いた。
慣らすしかないなぁ、なのですが、こうしてブログに書いたことで、同じ「高所恐怖症」仲間の方がいるということも分かり、私も力をもらいました!
どうもありがとう!と思いながら、以上、『高所恐怖症克服中②・その後編』でした!ではまた!
「レゴブロックみたいな五重塔が名古屋・栄に出現?」(写真を撮りに行ってきました!)
先日、地元のTV局で「名古屋に五重塔が出現⁉」というニュースを取り上げていました。
それがレゴブロックのような可愛さだったので、早速写真を撮りに行ってきました。
名古屋・栄に「五重塔」が出現⁉
水色の覆いを被せられて、まるでレゴみたいなシルエットが可愛いです。
この正体は、NTTコミュニケーションズのビルに建つ鉄塔。
ふだんは、「赤白」のカラーということでした。そうだったけ?
現在、20年に1度の塗り替え作業中(12月末まで)ということで、このような姿なのだとか。
もっといいアングル、時間帯があるはずということで、栄に出かけるついでに撮っています。
これは本当に「名古屋が古都に⁉」といういい感じの出来。でも、もっともっと撮りたい。
今度は少し離れてみました(離れすぎ?)。本当はもっと日没時間が撮りたいところ。
まだまだ撮りたいので、時間を変え場所を変え、年内がんばりたいと思っています。
もし、ベストショットが撮れたら、またここに上げようと思います。
【12/3追記】
と書いて、12/2、覆いが取れたというニュースが流れ、今日見に行ったところ、赤白のシマシマに戻っていました。
(あれっ?12月末までじゃぁ)と思いつつ、「12月末まで」と書いたことを訂正し、お詫びします。申し訳ありませんでした。
結局、夕景の写真も撮れず終い(悲)
ということで、わずかの間出現した『名古屋の五重塔』でした。今度は、20年後の出現となるのでしょう(覚えてられるかな?)。以上です!ではまた!
【中山道】奈良井宿と難所・鳥居峠(『初恋』(島崎藤村)の前にさしたる花櫛ってどんな櫛?)
前回ブログからの続きです。中山道の「藪原やぶはら宿」から鳥居峠を経由し、「奈良井ならい宿」、そして漆器の町「木曽平沢ひらさわ」を歩きます。
中山道・難所の1つ・鳥居峠を越えて、伝建地区・奈良井宿の美しい町並みを満喫できるルートで、天気が良ければ、御嶽山おんたけさんも望むことができます。
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①「藪原宿」
JRの藪原駅で降りて、町並みを散策していきます。
やがて、街道は藪原を抜けて、山の中へと入っていきます。藪原宿から奈良井宿までは約8㎞、所要時間は3時間30分位。整備された歩きやすい道です。
②鳥居峠
この辺りがこの浮世絵のモデルになった場所といいますが、こんな見晴らしは今のこの場所からは、望めません。
昔の鳥居峠は、中山道3大難所の1つだであったといいますが*1、今は相当整備されていて、谷沿いの道の恐怖も昔とは雲泥の差なのかもしれません。
晴れていたので、当然見えると思った御嶽山ですが、この日はかなり暖かく、あいにく見ることはできませんでした。
また、この神社の裏手には神社に奉納された石碑群があり、御嶽山への厚い信仰を感じることもできます。
この御嶽遥拝所まできたら、鳥居峠はもうすぐそこ。
さて、この石碑の建つ鳥居峠は見晴らしのいい場所ではなく、道沿いにあり、あれ?ここかという感じ。
この鳥居峠が分水嶺となり、北側に流れたものは奈良井川となり、犀川、千曲川、信濃川という錚々たる大河となり、日本海へ。また南側へ流れたものは木曽川となり、太平洋へ流れます。
昔の「峠の茶屋跡」には今は休憩所が建てられ、分水嶺からの水が流れています。
この辺り、菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の舞台で、主人公は夫婦で「峠の茶屋」を営んでいるのですが、裏稼業で人斬り強盗をしているというすごい設定でした。
この峠の茶屋跡からさらに下ると、葬沢です。
「葬沢ほうむりさわ」、すごい名前ですが、説明板には「1582年、木曽義昌が武田勝頼の兵2000を迎撃し、勝利を収めた古戦場跡。武田方の死者約500人が谷を埋めたことからこの名がついた」とありました。
16C、地元の木曽氏*2と隣国の武田氏は複数回戦い、この鳥居峠は美濃と信濃の国境にあるため、中世から何度も戦闘の場となったのだそうです。
1582年2月の戦い(甲州征伐)では、織田軍の加勢もあり、武田軍が敗れます。*3
そうした攻防の舞台にしては、なかなかの山中。「ほんとにこんなところで戦ったの?」と思いながら、さらに山道を下ります。
③「奈良井宿」
さて、坂を降りきるとそこには「奈良井宿」が広がっており、壮観です。昔の人も宿場を目にしてほっとしたに違いありません。
宿場入り口には、鎮しずめ神社という朱塗りの綺麗な神社が見え、出迎えてくれる感も。
④『初恋』に出てくる「花櫛」とは
この「中村邸」は元櫛問屋で、かっては塗櫛の商いをしていたのだとか。櫛のコレクションや櫛の乾燥に使った櫛専用の蔵などが面白いです。
こんな宝飾品みたいな櫛を貰ったら、さぞ心ときめいたことでしょう。
時代劇で櫛やかんざしをもらって喜ぶ女性の姿を見ることがありますが、その気持ちが分かるような気がしました。*4
実物は無かったのですが、花櫛はなぐしの写真を見ることができました。*5
島崎藤村の「初恋」にある花櫛ってこれか!
「前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり」の一節ですが、花櫛の意味はよく分らないものの「花のようにきれいな櫛」のニュアンスくらいかと思っていました。
これは可愛い。つまみ細工のお花がついていて、少し揺れるしかけのよう。
なるほど。この花飾りに負けないくらいの、本当に年若い女の子がつけるものということが分かり、何だかすっきりしとました。
また、この中村邸の「櫛の蔵」からみえる景色も素晴らしいもので、山が目の前にドーンと。
これがお庭の借景というのもすごい(おすすめは紅葉の季節とのこと)。
「中村邸」
開館時間:9時-17時(4月-11月)、9時-16時(12月-3月)
休館日:無休(4月-11月)、月曜(12月-3月)
入館料:300円
花櫛にたいへん感動したところで、「奈良井宿」を後にします。少し先の漆器の町・木曽平沢まで足を伸ばして、「中山道」の旅もおしまいです。
【営業時間】9-16時 【定休日】月
最後に
ということで、中山道の鳥居峠越などを中心に紹介しました。奈良井宿は例年、外国人観光客が多いのですが、今年はいつもより静かに紅葉を楽しめそうです。
山家らしい素朴な食事、歴史、町並み。何より美しい山と川。何度も訪れたくなる魅力的な場所ということで、『中山道・奈良井宿と難所・鳥居峠』の紹介でした!以上です。ではまた!
「高所恐怖症」克服中(年々ひどくなる、橋や歩道橋が渡れない、山道に足がすくむ、慣れるしかないというけれど)
「高所恐怖症(または癖)」で悩んでいる方、いないでしょうか?という私もその1人。小さい頃からその気けはあったものの、年々ひどくなり、橋や歩道橋すら怖くて渡れなくなってきました。
私の症状と若干の解決法を書いていきます。
①小さい頃から苦手意識はあった
考えてみると、小学生くらいは高さに対して苦手意識はあったものの今ほどではありませんでした。
ジャングルジムの上が苦手、遊園地のジェットコースター・ゴンドラも苦手な子供でした(なので、あまり乗らなかった)。
でも当時は、今ではもう信じられないことですが、名古屋TV塔の外階段を登ることもできました。
②大人になって
(人より)苦手意識はありましたが、高いから怖いので止めようはなく、足がすくむとかドキドキすることはあっても、まだどうにかなっていました(若かったせい?)。
この後出てくる歩道橋、橋、片側が崖の山道もとりあえず大丈夫でした。
登山の真似事をしていたのもこの頃。立山(富山県)に登れたことに気をよくし、富士山にもいつかは登りたいなぁ、と考える位でした。
③ここ数年で悪化
こうしてみると、ずっとその気はあったのですが、それがここにきて突然悪化したという感じ。
今までは何とかなっていた歩道橋、橋、片側が崖の山道にももの凄い恐怖を感じるようになりました。
こうした「高さ」のある場所に行くと、「橋が裂けて落ちる」「山の麓まで転がって落ちていく」「頭をうって死ぬ」という妙な想像をしてしまい、心臓がバクバク・手に汗が出てきて、もう怖くて怖くて、立ってはいられなくなるのです。
怖い怖い、という気持ちが体に影響を与えるのか、腰が抜け、まっすぐ歩くこともできず、バランスを取れなくなります。
例えば「歩道橋」ですが、高さに加えて下を通り抜ける車がビュンビュンしているのがまた怖いのです(特にトラックやダンプ)。
橋の下を流れる川の流れにも恐怖を感じてしまいます。
そんなに怖いなら行かなきゃいいのにという意見もあるかと思うのですが、あちこちとでかけることは楽しみなのでそれは継続したいのです。
そうして行ってみると、やっぱり橋だの歩道橋だのが出てきて、(うわぁ)となるわけです。*1
④「濃尾大橋」が怖すぎる
先日、木曽川にかかる濃尾大橋(のうびおおはし・777m)を渡る機会がありました。旧街道を歩いている途中で、どうしてもここで渡る必要があります。
過去に何回か渡ったはず。でも、今は、です。
橋の高さと長さ、橋を渡っていく車も怖い。
対岸はものすごく遠くて、数m歩いただけで「あぁムリだ」と思い、引き返してしまいした。
でも「ここで渡らないとまるで意味がなくなる」とも思い、橋のたもとで10秒くらい、岸の方を向いて目をつぶりました。「高所恐怖症」であっても、10分くらいじっとしていることで高さに慣れます。*2
でも、こんな橋のたもとに10分も立たれたら邪魔だし、不審に思われてしまいます。
全く恐怖に慣れないまま、風景は一切見ず、対岸の到着点一点だけ見て、時々目をつぶりながら、歩くことにしました。
その間も「橋がぱっくり割れて落ちていくものすごい恐怖」が繰り返し襲い、心臓がバクバクし、まっすぐ歩けない恐慌状態でした。
この時、対岸から行き違った人がいたのですが、彼らが漕ぐ自転車が私の目には希望の灯のようにみえ、
「橋の上を自転車で渡れるなんて、なんてすごい人なんだ!」という尊敬の眼差しで見ていたことを彼らはよもや知らないでしょう。
あまりに怖いので、試しに「お父さん」と念仏のようにつぶやいてみます。*3
ブツブツ効果は少しはあったようで、今度、橋を渡る時には使えるかもしれません。*4
そんなわけで、全く生きた心地がしないまま、なんとか渡ることができましたが、決して克服とは言えず、怖いのは相変わらずという。
ちなみにこの木曽三川きそさんせん(木曽川・長良川・揖斐川)にかかる橋はどれも長大で、ここ数年は死ぬ気で渡っています。
木曽三川ではありませんが、「衣浦きぬうら大橋」(半田市ー高浜市)なども長大で、交通量も多く、死ぬかと思った。
最後に
「高所恐怖症(また癖)」の克服には、慣れることと書いてあります。高い場所に繰り返し慣れさせることで、脳が「ここは安全なんだ」と認識するというのです。
確かに、ありえない想像をして(橋が落ちるなど)、私は勝手に怖がっているだけなのです。
飛行機が怖いという話もよく耳にしますが、これも想像恐怖で、ほとんど起こらない状況を想像して怖がっているわけで。
なので、何も考えない・バカになる必要があるかなと思うのですが、1度そういう想像恐怖脳になってしまうと、なかなか難しいのです。
以前、「私は体重が2kg(だから橋は落ちない)」「私はバカ(だから余計なことを考えず橋が渡れる)」など唱えながら、歩道橋を渡るやり方を試したこともありましたが、これもダメだった。
現在、何かいい解決法はないのだろうか、と高所恐怖症のサイトを見たりしているのですが、まだこれという解決法にいきあたっていません。*5
また、「高所恐怖症」についての体験談を書いてる人も少ないと感じていたので、今回のブログとなりました。
「これさえやれば!」という解決案を提示できるとほんとうにいいのですが、また探して、効果があったものは上げていきたいと考えています。
ということで、『高所恐怖症・克服中(年々ひどくなる・橋や歩道橋が渡れない)』でした!以上です、ではまた!
下記では、その後の克服の試行錯誤を書いています。
断崖絶壁の要塞の城「長篠城」(豊川が守る、川の合流地点に建つ城)(愛知県・新城市)
前回ブログの続きで、今回は豊川とよかわが守る、天然の要害の城「長篠ながしの城」について。
その他、「鳥居強右衛門すねえもん」のエピソード、「長篠城址史跡保存館」などについて載せています。
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①「長篠城」について
1508年、菅沼すがぬま氏によって築城されました(この時は今川方)。やがて、徳川氏に従います(武田方の時期もあり)。
1575年の「長篠の戦い」当時は、徳川方の城で、城主は奥平氏。
この「長篠城」は、東西・南を断崖絶壁に守られた天然の要害の城で、北側だけ平たんで守りが弱いため、堀を2重にし(川をせき止めた深い水堀)、土塁をもうけてカバーをしていました。
②「長篠城」攻防戦
1575年、三河侵攻を開始した武田勝頼の軍(1.5.万)は、この長篠城(守備500)を攻めます。
5/8、戦闘が始まります。武田軍は竹筏で上陸し、断崖絶壁を登ろうとして石を落とされたり、横穴掘りをしてみたり、兵糧蔵を破壊したりしています。
そうこうするうちに、「鳥居強右衛門の脱出行」(後述)があり、徳川・織田の援軍も到着します。
徳川・織田の連合軍は少し離れた設楽原したらがはらに陣地を構築。
5/21、その設楽原で「長篠の戦い」が開戦、という流れになります。
③豊川の断崖に建つ城
さて、この長篠城が「日本100名城」の1つと聞いても、「長篠城址史跡保存館」の写真ののどかなイメージもあり、全然想像できていませんでした。
左側が豊川(寒狭かんさ川)、右側が宇連うれ川で、その合流地点の断崖に城はあります。川の流れはけっこう早く感じます。
この長篠城跡が体感できるのは、城跡の南側で、
この本丸の南側を、下にある川を見下ろしたいのですが、木々にさえぎられて全く見えません。残念!
木々で状況が分からないけれど、フェンスの向こうは断崖絶壁のよう。それは、聞こえてくるの川音からも察せられるのですが、立地がまるで分からず、ちょっと怖い。
対岸もまるで見えませんが、「長篠の戦い」で有名になった鳥居強右衛門すねえもんの磔にされた場所や碑があるようす。
また、城の北側には当時の堀と土居が残り、1575年当時はこの堀に水を入れていたといいます。
城の外に出て、城を眺めてみます。城の北側は平らで、南の険しさがウソみたいです。
また、城のすぐそばに「中央構造線」の露頭ろとうがあるというので、見にいってみました。
しかし、途中の看板に「崩落のため、行けません」とあり断念(ほんとだ!何か崩れてる!)。
また、この露頭の側には武田四天王の1人・馬場信房(62)のお墓もあります。
「長篠の戦い」の殿しんがり線で戦死したといい、設楽原の決戦場からは少し離れた場所です。
④長篠城籠城戦のハイライト?「鳥居強右衛門」のエピソード
鳥居強右衛門(36)は、長篠城主・奥平おくだいら氏の家臣(陪臣?)で、*1
1575年、長篠城が武田の大軍に包囲された時、徳川氏に援軍を求めるため、家康や信長に危機を知らせに行った足軽であった、といいます。
強右衛門は、深夜に「野牛廓」の不浄口(下水口)から脱出。豊川を4km泳ぎ、下流地点で上陸したとあります。*2
真の闇の中、敵に悟られないようにあの断崖絶壁を降り、泳いだ、というのはにわかには信じられません。しかも川は急流で、4kmも果たして泳げるものなのか?岩もあるし、ですが。
こうして見事脱出した強右衛門は、首尾よく家康・信長に会うことができます。
この時点で、もう援軍が長篠に向かっていたので、強右衛門はこれを城内の仲間に伝えるべく、また長篠城に引き返します。
そして、城内に戻ろうとしているところを武田方に捕らえられ、奥平方という素性も暴かれます。
武田方の提案は、城内に向かって「援軍は来ない。諦めて開城しろ」と叫べば、武田の家臣として厚遇するというものでした。
この時、強右衛門の取った行動は、「あと2-3日で援軍がくる。それまで持ちこたえろ!」と城内に絶叫する真逆のものであったといいます。
それを聞いた武田勝頼(30)は激怒し、部下に磔にさせたか切り殺した、と言われています。
⑤「長篠城址史跡保存館」
さて、長篠城址史跡保存館では、長篠の戦いに関連する展示を見ることができるのですが、1番の目玉はこれ。
籠城時、奥平軍が使ったもので、奥平家の家宝となっています。太鼓の下の部分にみえる血の色が鮮やかなのに驚きます。
最後に
ということで、天然の要塞・長篠城を見てきました。
東西・南からの侵入はたいへん厳しい反面、北側は同じ城か?と思うほどの平たんさで驚きました(だいぶ壊されているそうですが)。
信玄が攻めた「野田城」、後の「新城しんしろ城」やその他の東三河の城の多くが、豊川*3の河岸段丘上に作られ、守りを固めていました。
中でも、もっとも急峻な立地に作られたのがこの’長篠城’で、武田の侵攻をはばんだのは、豊川の作った地形のおかげともいえそうで、改めて豊川という大河の流れにも感心した今回でした。
というわけで、『断崖絶壁の要塞の城・長篠城』でした!以上です、ではまた!
下記ブログでは、豊川の河岸段丘についてふれています。
芥川龍之介とイケメンの親友。そして、龍之介の三男と『ゴジラ』との関係【芥川也寸志の音楽】
芥川也寸志やすし(1925-1989)という作曲家をご存じでしょうか?芥川龍之介(1892-1927)の三男で、多くの人に知られる曲を残した名作曲家さんです。
心が揺さぶられる芥川也寸志の曲と、也寸志がその名をもらった芥川のイケメンの畏友・恒藤恭つねとうきょう。
そして、也寸志が慕った作曲家・伊福部昭いふくべあきらについて書きたいと思います。
①芥川也寸志の曲
まずはこの曲。『八墓村』(1977)に使用された曲ですが、日本の風景の映像とあいまって、日本の地方、農村、歴史、民俗を連想させるにぴったりの曲だなぁと思っています。
聞くたびに、心の中を風が吹きすさぶような気持ちに。
そして、もう一曲。こちらも映画『八甲田山』の曲(1977)として作曲されました。
『八墓村』と通じるところのある曲で、本来の芥川也寸志の曲調は快活なものが多いとあるのですが、映画に合わせてこういう暗めの曲調なのでしょうか。
こちらも同じく心を揺さぶられる曲です。
也寸志の曲で、恐らく最も有名で一番耳にしたことがある曲はこれ。
昔は年末になると『赤穂浪士』が放送されており、この曲の中毒性もあり、『赤穂浪士』を見ていたものですが、まさかこの曲が芥川龍之介の息子さんの曲とは、その時は思いもよりませんでした。*1
②芥川の親友・恒藤恭
さて、也寸志がその名前をもらうことになった芥川の親友・恒藤(井川)恭つねとうきょう(1888-1967)です。
昔、この写真を見て2人のイケメンぶりにたいへん驚いたことを憶えています。
エリートでイケメン。後年、文豪と学者として名を成す若い2人がとても凛々しい写真です。
一高時代の旧友には菊池寛をはじめ、後に文筆で有名になる人ばかりなのですが、一高時代の3年間で、芥川が最も愛した級友が恒藤恭でした。
一高卒業時、芥川が恒藤恭に送った手紙を今回、初めて読みました。
「君は自分が君を尊敬してゐることはしつてゐるだらうと思ふ。けれども自分が君を如何に愛してゐるかは知らないかもしれないと思ふ」
「時として惡み、時としては争ったが、矢張三年間一高にゐた間に一番愛してゐたのは君だったと思ふ。」
引用:恒藤恭『旧友 芥川龍之介』大正2年7月の手紙より
この2人、性格は違うものの、寮の同室で生活をし、お互いを尊敬しあう仲だったのです。
もともと文学に興味があった恒藤恭ですが、芥川らの才能を目にし、この後、京大法科に転じ、法哲学者として有名になります。2人の交友は、芥川の死まで続きます。
3男・也寸志の名は、この秀才・恒藤恭から取られました。*2
③也寸志の作曲の先生・伊福部昭
芥川が自殺した時、也寸志はまだ2歳くらい。父芥川と同じく、音楽が大好きで、やがて作曲家を心ざします。
そして、入学した音楽学校の作曲科の先生が伊福部昭いふくべあきら(1914-2006)でした。
伊福部を音楽学校に招いたのが、芥川龍之介の知り合いだったりと、巡り合わせも興味深く感じます。
伊福部昭といえば、『ゴジラ』のテーマの作曲家ということで有名ですが、也寸志はこの伊福部を慕い、たいへん影響を受けたといいます。
2人は師弟ということで、2人の音楽には何か似た匂いを感じます。
『ゴジラのテーマ』とともに伊福部の『宇宙大戦争マーチ』(1959)も名曲ですが、疾走感やドキドキ感や音に也寸志と共通なものを感じる気がします。
宇宙大戦争マーチ Battle in Outer Space
最後に
ということで、芥川龍之介の周りの人を見ていきました。明治から昭和の文人の交流を見ていくと、この人とこの人も知り合いなのかとか、意外と交流があるんだなと思うことがあります。
音楽家も仕事柄、小説家、映画監督、俳優と交遊があることが分かります。
也寸志自身も短い間ですが、女優の「草笛光子」さんと結婚していました。
そうした人間関係や、その作品が作られた当時の状況を想像しながら、読んだり聞いたりすると、よりいっそうその作品に愛着を感じます
【木曽路のお土産】創作栗きんとん「栗苞」「七笑」「漆ガラス」「苑工房のアクセサリー」など
山と渓流と宿場町の古い建物。人の絶えた、少し寂しい風情が魅力的な場所です。今回は買ってきたお土産の写真をのせて、木曽路の産物の紹介したいと思います。
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中山道・木曽路
木曽路とは、中山道の一部区間。*1 岐阜と長野の間の「木曽谷きそだに」の道を特にこう呼びます。
岐阜県中津川市の辺り(馬籠まごめ宿)より、左右が山に囲まれた木曽谷の中に入り、長野県塩尻市(贄川にえかわ宿)に出るまで谷が続きます。産物は、山中なので山のものが多いです。
①栗きんとん
秋に売られる栗きんとんは名古屋の方でも大人気。
有名な「すや」(中津川市)「川上屋」(同)もおいしいですが、最近いいなと思うのが「松月堂」さん(同)の創作栗きんとん。
「栗きんとん」は美味しいけど、味が単調に感じることも。それをぷるぷるの葛で包むことで味や食感に変化が出て、とても美味しく感じます。
少し冷やして食べるため、さっぱりとするのも良い。
栗きんとんを買うには
どこでも買えますが、中津川駅前の「にぎわい特産館」は種類がそろっており、バラ買いができる。
各店舗の栗きんとんの食べ比べができておすすめ。
【営業時間】8時30分-18時
また、「恵那市観光物産館・恵那テラス」でも栗きんとん食べ比べセットが販売されている。
【営業時間】9-18時
②ごへーもち
五平餅も木曽路名物。わらじ型の五平餅もありますが、木曽路では団子型に作るようで、中津川の「喜楽」さんの五平餅を買いました。
③朴葉寿司
朴ほおの葉って形がおもしろくて何だかいいものです。その朴の葉に包まれたお寿司はとても山家な趣き。
こちらは、「寿司処ほたる」さんというお店のもので、同じく「にぎわい特産館」(中津川駅前)で購入。
ちなみに後の2個は「穴子」「海老」で、味が全部違うのもうれしい。朴葉寿司には、山菜・魚などこうした好きな具材を入れるのだそうです。
④「七笑」【七笑酒造】
木曽のお酒といえば、「七笑」「木曽のかけはし」「中乗なかのりさん」が代表的。中でも好きなのは「七笑ななわらい」というお酒。
’七笑’というこの名前、とっても可愛いと思い、調べてみると、
もともと木曽駒高原入り口にある集落の地名のようで、鎌倉時代の木曾義仲(きそよしなか・1154-1184)がここで少年時代を過ごしたというお話があるのだとか。
今回買った純米吟醸(アルコール度数15度。日本酒度±0)は、優しくて旨味のある美味しいお酒でした。
個人的には辛口がいいのですが、「七笑」は甘みを感じてもイヤじゃないと思う、美味しいお酒。
【所在】長野県木曽郡木曽町福島5135
本店では、上の巾着のようなグッズを買うこともできます。
⑤漆ガラス【丸嘉小坂漆器店】
木曽谷で取れる木材を使った漆器や櫛も有名です。今回、初めて見たのが「漆ガラス」というもの。
「漆ガラスってなんだろう?」とお店の方に尋ねると、ガラスに漆を塗ったもので、ガラスに塗った漆はふつう剥がれてしまうのですが、この剥がれないところに秘密があるということでした。
お店で使い方を聞いてみると、「おひたしをのせたり‥」とのアドバイスをもらいました。なるほど。スタイリッシュなおひたしでも作ろうかな。
後ろ側に塗るので表はガラス材。ナイフなどを使っても漆には傷がつかず、長持ちするということでした。
買える場所は「丸嘉小坂漆器店」(まるよしこさか)、「木曽くらしの工芸館」など。
今回のは「すいとうよ」(透いてるよ。好いてるよ。の意味)というシリーズ。
⑥「苑工房」さんのアクセサリー
「苑工房えんこうぼう」さんは岡山県倉敷市にあるお店ですが、そのギャラリーが奈良井宿にもあり、お店では自然のお花や実、葉っぱのアクセサリーを買うことができます。
こちらも秘密の工法を施してあるそうで、固く丈夫で色も美しいです。また、自然の素材を使っているので、同じ商品でも微妙に違い、選ぶのに悩んでしまいます。
退色はやはりしていきますが、数年は大丈夫。
(保管にもよる。少しくらい色あせてもそれはそれで。)
奈良井にあるお店は「ギャラリー パウザ・ディ・クローマ」といい、お店が倉敷となぜ奈良井なのか?は長年の疑問(両方とも観光地だからかな?)。
【所在】長野県塩尻市奈良井585
⑦ その他
こうしたお土産は、奈良井宿の中のお土産屋、木曽くらしの工芸館などで買うことができます。
ということで、秋に訪れたくなる木曽路のお土産を紹介しました。他にも、そば、お六櫛、ひのき製品、からすみ(お菓子)など、まだまだありますが、今回は以上です!ではまた!
下記ブログでは、奈良井宿を訪問しています。
「長篠の戦い②」(両軍の距離が近すぎる。兵力差もあるのに戦った理由がよくわからない)
前回ブログ、「長篠の戦い①」の続きです。復元された馬防柵、決戦場跡、激戦地、戦死した山県昌景やまがたまさかげのお墓などを見て歩いています。
1575年5月、織田・徳川連3.8万人、武田軍1.5万人(の勢力の一部)が設楽原で激突しました。*1
(少し見づらいですが)東側に武田軍。
馬場、真田、穴山梅雪あなやまばいせつ、土屋、内藤、小幡、甘利あまり、山県、小山田の名が見えます。
西側が連合軍で、上の方が織田軍(羽柴、水野、佐久間さくま、丹羽、滝川)
下に徳川軍(石川、本多、榊原、大須賀)
織田信長の本陣は、織田軍の後方です。
「馬防柵」と決戦場跡
奥の山が武田軍の陣地ですが、やはり、近いっ、近すぎる!(数百m?)
昔の戦闘って、本当に彼我の距離だなと思うのですが、考えてみれば、暴走族の抗争だって飛び道具もないし、お互いがしゃべれるくらいの距離。それよりはもうちょっと距離とったかんじ?
さて、奥の鉄塔の辺りの高台が、武田勝頼の本陣「才の神」です。
連合軍は、連吾川れんご沿いに2㎞・3重の柵を構築したといいますが、正直、えぇ、ここに3重に柵を?と思う狭さです。
また両軍が対峙した川が思った以上の小川でまたまた驚きます(川幅は2-2.5m位)。
『甲陽軍艦』には、「馬を十騎も並べて駆けられるところではない」とあり、確かに騎馬隊が一斉突撃ができる場所ではなし。今も凸凹感があり、約450年前も今と同じ田んぼや川だったわけで、地形の変わらなさは驚異です。
織田軍と徳川軍の柵がそれぞれ復元してあり、出入口のもうけ方に違いがあるのですが、そうしたことも現地にきて実際見ないと分からないものだなぁと。
連合軍は柵を作り、空堀・土塁を築き、1000~3000丁の火縄銃を用意。というように用意周到に陣地を構築しています。
信長が岐阜を発つ時、兵に柵木1本と縄をもたせたといい、着々と備えていたことが窺えます。*2
当時は木を切り倒したりして整地し、もっと地面が露出していたのかとか、
戦場には陣地を構築するカーン、カーンという設営の音がこだましていたのか?など、想像は尽きません。
上のイラストでみると、設楽原をうずめる人・人・人、すごい人!そして、少し小高いところには大将の陣地があります。
両軍の兵力約5万として、5万というと、下の名古屋ドームのお客さん全員で戦う感じ?
戦闘と武田軍の崩壊
さて、戦闘は早朝から昼過ぎまで、約6-8時間続いたといいます。
武田軍は、隊ごとに主だった者7-8名が馬に乗り、(馬を後にひいた)後続隊が鑓を使って切りこんだとあります。*3
やがて、武田四天王*4の1人で、最左翼にいた山県昌景(やまがたまさかげ・54)の戦死により、山県隊が崩れ、内藤、土屋と討ち死にしていきます。
これは真ん中の「親族衆」(勝頼の従兄弟やおじさんなど)の隊が早期退却したため、左右の隊に攻撃が集中してしまったためともいわれます。*5
武田軍としては、寡勢で大軍と戦うため、左右の軍で包囲するような陣形をとりたかったという話も。
山県昌景のお墓
その山県昌景のお墓が長篠にあります。
「丸山」と大宮前激戦地
丸山まるやまは、織田軍と武田軍がこの場所の奪取をめぐり激突した設楽原指折りの激戦地といいます。(場所は「馬防柵」の北数百m)
最後に
なぜ、大軍の連合軍(しかも陣地構築万全の)に武田軍がしかけたのか?
信州に退却するとみせかけて、退路で迎え撃った方が良かったのにとか、この場所で戦わないという選択肢はなかったのかと思うのですが、よく分かりません。
『甲陽軍艦』では、配下の進言を取り入れたためとの記述も見えます。
慢心だったのか、決着をつけるためにここまで遠征をしてきているので、気持ちがはやったのか。
(甲府から長篠まで、諏訪を経由するルートだと約240kmの長距離。)
結局、謎のままなのですが、450年前の話なのに、地形などが良く残り、当時の状況を想像できる「設楽原の古戦場」はたいへんおすすめのスポットだと思いました。
というわけで、以上!『長篠の戦い②』でした!ではまた!
【奇祭】女装と「やんちゃ馬」がかなり珍しいお祭り【愛知県瀬戸市・八王寺神社の秋祭り】
例年10月、愛知県瀬戸市の八王寺神社では、秋祭りが行われます。
この祭りのメインは、「献馬けんば」*1ですが、その際、地区の氏子さんたちが女装をし、町内を練り歩くという、他にはない珍しい様子を見ることができます。
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さて2020年はコロナ禍で、各地でお祭りが中止になっていますが、残念ながら、八王子神社のお祭りも中止。昨年までの写真を載せて紹介していきたいと思います。
秋祭り(2015年)
祭りの当日、男性の氏子さんたちは女装をし、集合場所から「飾り馬」を引いて町を練り歩きます。
顔は白塗りで、派手なメイクが施されています(唇の赤がやけに生々しい)。
このお祭り、調達してきた女物がそろっておらず、バラバラなのもいいところ。最初見た時は、正体不明の集団の異様さにギョッとなりました。
「やんちゃ」とは
さて、全体をまとめる当番のシマ(地区)を「やんちゃ」と言い、このやんちゃ当番が仮装をする習わしです(女装・乞食のかっこうをする)。
八王子神社に献馬をするシマは4つ(現在では3つ)。数年ごとに「やんちゃ当番」が回ってくることになります。
なぜ、女装をするのか?
説明は2つあり、1つは松原広長(ひろなが・440-1482)という土地の領主にまつわるもの。
この松原広長公、近隣の勢力と争っており、1482年の合戦で大敗をします。そのさい、女装や乞食の恰好に身をやつし、その場を逃れることができたという広長公の故事をしのんで、というもの。
もう1つは、かっては東の「猿投さなげ神社」(愛知県豊田市)まで献馬をしていたのですが、ある年、峠で馬が言うことを聞かなくなり、仕方なく飾りだけを奉納したことがあったと(または飾りをとった馬だけ奉納した)。
それ以降、献馬する若者たちが照れ隠しで、田舎臭い化粧をしておどけながら献馬をするようになったと説明されています。
秋祭(2018年)
ほぼ毎年みていて、女装にも変化があり、年々コスプレぽくなってきたなという印象も。上の写真には、何だかビジュアルバンドみたいな人もいたり。
この八王子神社、さきほどの松原広長の居城の今村城の跡で、お濠の跡などが残されています。
秋祭(2019年)
最後に
というここで、瀬戸市を代表する奇祭 ・八王子神社の「秋祭り」を取り上げました。
名古屋の人も知らない、地元の人だけのお祭りなので、すいててのんびりとお祭りを見することができます。
また、当日は警固隊けごたい*2が空砲を発砲しているので、パンパンとあちこちから空砲が聞こえてくるのも楽しいです。
歴史があり、郷土色豊かで、’武’と’農’が結びついた祭礼。そのうえ、女装までしてくれる、実にありがたいお祭りだな、と毎年楽しみにしています。
個人的には最近のコスプレ傾向はあんまりで、女物のレトロな着物を着流し、おひきずりする、昔ながらのやんちゃが好きなのですが。
いい写真が撮れたら、またアップしようと思いながら、以上、『八王寺神社の秋祭り』でした!ではまた!
「長篠の戦い①・設楽原の古戦場」(徳川・織田連合軍と武田軍との距離が近すぎない⁉)(愛知県新城市)
有名な「長篠の戦い」が行われた新城しんしろの設楽原したらがはら古戦場に行ってきました。
飯田線・三河東郷とうごう駅で下車し、決戦場や復元された馬防柵、「設楽原歴史資料館」、首洗池などを歩いています。
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「長篠の戦い」
長篠の戦い(1575年5月・新暦では6月末-7月上旬頃)は、三河侵攻などを目的とする武田勝頼軍と織田信長・家康連合軍が東三河で激突した戦いで、結果は、連合軍側の勝利となりました。
武田方の宿将の多くが討ち死にし、勝頼は甲府へ逃げ延びますが、この後、武田氏は求心力を失い、衰退していくことになります。
地形は、北に向かって高くなっていきます。
写真の交差点の奥に行くと竹広激戦地。この辺りでも戦ったのかなと想像がふくらみますが、ふきんいったいで戦っていたことでしょう。
さて、「首洗い池」は錦鯉が泳ぐ、少し赤い池で、この赤色、鉄分を多く含む土壌の色なのだとか。池があるのは戦場の南、土地が低くなっているところです。
この2つの大きな塚が「信玄塚」で、両軍の死者16000人(?)が葬られているといいます。
信玄塚というネーミングに思わず信玄のお墓かと思ってしまいますが、ではなし。
この塚のすぐ側に、設楽原歴史資料館があります。
設楽原歴史資料館
館の前の銅像は、岩瀬忠震(ただなり・1818-1861)で幕末に「日米修好通商条約」を結んだ1人。*1
(そういえばなんか指さしていますが、何を指さしていたのかな?)
この歴史資料館では、長篠の戦い、火縄銃のコレクション、この岩瀬忠震コーナーなどを見ることができます。
館内の野田城の模型です。この野田城もここからそんなに遠くない三河の城で、「長篠の戦い」直前のストーリーがあります。
信玄はこの野田城を攻め落とした後、喀血して発病。数か月後に53歳で、亡くなっています(1573年)。*2
こちらは、敵味方を識別する「合印あいじるし」。
「南無諏訪大明神」とあり、そういえば武田勝頼は、最初、諏訪氏を継ぎ、諏訪勝頼をなのっています。
武田家の4男で他家に出され、武田の家督を継ぐ予定ではなかったといい、だから、武田家をうまくまとめきれていなかったという話も。
さて、館の屋上からは設楽原の古戦場が一望できます。
上の写真、手前のモコモコした茂みが武田軍の陣地です。織田軍と相当近いです。目視で数百mくらいにみえます(近いっ、近すぎる!)。
こちらも手前の茂みが武田軍の陣地になります。
後編は、馬防柵や決戦地へ向かいます。
ということで、以上、 『長篠の戦い①』でした!ではまた!